教師と社会⑦「35人学級のエビデンス」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.17

教育の本質への無知と無政策

前回の投稿(7月19日「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」NO.16)では、小学校において、「児童それぞれにきめ細かい指導をしやすくする目的」で2021年度から5年かけて、すべての学年で「35人学級」に移行するということや、「小中の教員免許を両方取得する場合に必要となる教職課程の単位数を減らす」ということが述べられ、「小学校教員になりやすい環境を整える」と報道されたことについて述べた。
この報道、というか政策は、ぼくは正直にいうとよくこのような短絡な発想ができるものだと呆れている。
この政策を聞き、「教師が憧れの職業でなくなった」ひとつの原因は、文部科学省のトンチンカンな、現場と教育の本質を知らない無知な無政策が呼び起こしたものではないかと思ってしまったくらいだ。

「35人学級」にすることによって、学校は、教師はどのようによくなるのか。
エビデンスが示されていない。
というよりも、示すことができるのだろうか。

アンドレアス・シュライヒャーは、PISAにおける調査によって「幾つかの神話を暴く」とし、その中で

「クラス規模が小さいほど成績が良くなるのか」

という問いをたて、
政治的にクラス規模の縮小はよく議論されるが、それが学習成果を向上する最良の方法であると示す国際的な根拠はない」と論じている。

そして、「クラス規模を縮小する費用対効果は馬鹿げているかもしれない。その代わりに良い教員に高い給料を支払った方がよいかもしれない」と言及した。
つまりここでは、クラス規模を縮小することによって、その国の現在の教育の苦境を乗り越えようとすることによって、良い教員を育てるチャンスと予算を放棄しているということなのである。
また、シュライヒャーはまるで「謎解き」のようなことも言っている。
日本では学齢期の子供の人口が減少に転じても、政府は引き続き「大規模クラスを維持した」。
そのため、「日本の教員は授業の準備により多くの時間を割いたり、課題を抱える生徒について他の教員と相談したり、授業についていけない生徒に個人指導することができる」。
そして「アメリカと日本の生徒数対教員数の割合における支出は同程度だが、日本の政策立案者は大規模クラスを維持することで教員により多くの準備時間を与え、生徒へのきめ細やかな対応を可能にした。反対にアメリカは小規模クラスを選択したことで、教員の準備時間と生徒への個別対応に割く時間が少なくなっている」と述べた。
このことだけを見ると、日本がこれから取り組もうとしていることとは全く逆のことが述べられている。
日本はこれから、小規模クラスにして「きめ細かな指導」を可能にしようとしているのだが、シュライヒャーによると、かつて大規模クラスを日本は維持していたからできたのであり、小規模クラスを選択したアメリカはそれができなくなったというのである。


これはどういうことだろうか。
そのことを理解するためには、もう一つの文脈に目を向けることが必要である。
それは、「学校システムの質が教員の質を上回ることはない。ワールドクラスの学校システムでは、必ず教員や指導教員の選考に最新の注意が払われる」という言及である。
もっと端的に、「大規模クラスを採用する国の教員の給与水準は高い」という文言が表していることについて、洞察が必要だ。
つまり、大規模クラスを維持することは、教員数を必要以上に増やさないことにつながる。
そしてそのことは、教員採用の質、あるいはハードルの高さを維持、あるいは高めることになる。
その中で採用された教員は、大規模クラスをうまく経営し、きめ細やかな指導が可能なのだということなのである。

このロジックからすると、いま日本は、まさにかつてのアメリカの公教育の轍を踏もうとしている。
学級を小規模化し、35人学級にして教師の労働量とトラブルの機会を減らすことによって「ブラック化」している教員の労働の色を変化させようとしている。
しかしだからこそ、教師の給料を増やそうとする知らせはやってこない。
それは長い目で見たとき、目の前の子供たちのためになり、教師の質を高めることにつながるのだろうか。
そして、教員になろうとする若者が増えるだろうか。

(次回へと続く)

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