大阪教育大学附属池田小学校事件22年目の日を迎える前に考えること② 不審者対応訓練の意味について

今日この日、附属池田小学校事件から22年目を迎える。

今この時、子供たちは「祈りと誓いの塔」に向かっていることだろう。
私自身も、毎年この日は、1年でもっとも緊張し、感慨深く、気持ちを引き締め、涙をこらえる日だった。

そのような中、ずいぶん減ったがやはりこの時期にはニュースで事件の報道を観る。
その報道で最近感じるのは、附属池田小学校の「不審者対応訓練」関連の報道が多いことだ。

当校では、事件以降年間で5回の訓練を実施している。
私が当校で学校安全主任をしていたときには、自らが不審者役になって訓練を繰り返した。

そしてあるとき、研究会で訓練を公開しようという話になった。
みんなで試行錯誤し、参観者の安全を第一にしつつ、自分たちの訓練の「迫力」を出すにはどうすればいいのか、夜毎議論した。

報道を見ていて気になることがあった。
なぜ、事件から22年たち、不審者対応訓練をテーマにするのか、ということだ。
それは、目に見えて事件の教訓が生かされているように感じられるからだろう。
しかし、全国の学校園に対する発信としては落とし穴があるように思う。

結論からいうと、あのような(附属池田小学校が実施している)訓練は、意味があって意味がない、ということだ。

その意味

意味があることとしては、訓練を行うことによって「安全意識を向上させる」ということがある。
一度訓練をしてみるとわかることだが、自分自身が犯した「ミス」がどれほど大きな事態を招くのか、よくわかる。
訓練のミスは反省すれば済むが、有事でのミスは子供たちの命に直結する。
そのことは、訓練をしてみないとわからないことだ。

また、もう一つの有意味としては、有事における判断力やスキルの向上が挙げられる。
たとえば本ブログでも取り上げた、今年(2023年)3月に発生した埼玉県の中学校不審者侵入事件では、教師が適切な避難行動を生徒に指示した。
しかし一方で、その教師は負傷を負っている。

意味がないということの意識

意味がない、という言い方をしているのは、ただ一つ、訓練をしている状況(刺股で犯人と格闘するなど)になった時点で、もはや事件は発生し、何らかの被害(子どもや教師が負傷する。あるいは命の危機)が発生するということである。

私が附属池田小学校で教員をしているとき、当時の校長(事件時にいた教師)とこんな会話をしたことがある。

校長は私にこう聞いた。

「目の前に、子供に危害を加えにきたと一目でわかる犯人が立っていて、君は鉄の棒を持っていたとする。その鉄の棒で、犯人の頭を叩き割れば、被害を食い止めることができる状況にあるとする。君は、その手で犯人の頭を叩き割れるか」

私は瞬時に返答できなかった。
すると校長はこう言った。

「できないだろう。それは、私たちには理性があるからだ。犯人に理性などない。私がこの目で見た犯人は、人ではない獣のようだった。闘っても絶対に勝てない」

私が「意味がない」側面を言っているのはこのことだ。
ましてや警察官が不審者役になり、子供がいる教室に押し入って威嚇する訓練にはもっと意味がない。

この校長の話には結論がある。

それは、最も大切なのは、私たちが考えなければならないのは、

犯人を学校内に侵入させないこと

このことに尽きる。

附属池田小学校の事件では、犯人は裁判で

“門が閉まっていたら入らなかっただろう”

と言った。

この言葉を聞いた時、大切な我が子を失った遺族はどう思っただろう。

そのことを想像し、教訓にして、目の前の子どもたちの命につなげてほしい。

事件から22年目のこの日、亡くなった8人の天使たちに祈りを捧げ、学校、子供の安全に向けた研究と実践に尽くしていくことを改めて誓いたい。

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