「いじめ防止と道徳の授業の課題」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.57

前回(No.56)では、教師がいじめに介入することの有効性、困難について論考した。
教師はいじめに介入しようとし(約半数の割合)、いじめを無くしたり減らしたりする有効な対応を行なった(介入した教師の約半数)という調査結果を紹介した。
だが一方で、教師に相談した児童生徒にとっては、相談した成果は3割強の割合でしか得られていないことになる。
したがって、いじめ被害を受けている児童生徒が、担任教師に相談することにはリスクが伴う(7%はいじめをひどくしたという結果もある)という感覚が強くなっていることが想定されるのだ。

そこで今回は、教師としての大きな役割である「授業」といじめについて、考えてみたい。

道徳の授業の役割や価値

今次改訂の学習指導要領から、小中学校において「特別の教科 道徳」(以下、道徳科)が創設された。
それまでは教科ではなく領域であった道徳に、教科としての性格を持つ科目としてその性格を変容させようとする取り組みだ。

重要なのは、この変革の契機は「いじめ問題への対応」であるということだ。
それは、2011年に発生した大津市の中学校2年生の生徒がいじめを苦に自死した事件だ。
この事件を契機に、「いじめ防止対策推進法」が制定され、そして道徳の「教科化」の議論が大きく動き始めたという経緯がある。
そして道徳が一つの教科としてスタートしているのだが、そのことによる学校教育現場での変化、とくにいじめ防止と道徳科の授業との関連や効果はどのようなものになっているのだろう。

もともと道徳には、「内容項目」というものがある。
たとえば、いじめ問題に関連していそうなものを挙げると、

「善悪の判断、自律、自由と責任」「正直、誠実」「希望と勇気、努力と強い意志」「友情、信頼」「公正、公平、社会主義」「生命の尊さ」

などが挙げられるだろうか。

授業では、これらの内容項目の重点課題を決めて実践されるのが一般的だろう。
だがそこには、常に道徳授業の課題が表出していた。

教師は「価値」を押し付けてはいないか?

これについては、上記の内容項目を見ればわかる。
全て、「それについて学びましょう」ではなく「それが正しい」と主張している。
だから教師は、結論をそこに持っていこうとせざるを得ない。

道徳の授業の課題点を象徴する、あるいは日本のいじめ防止への足掛かりとなるこんなエピソードがある。

経済を優先することが私たちの「誠実」だと言った学生

「手品師」という道徳の物語教材がある。
とても有名な教材で、多くの研究題材にもなっている。

ぼくのゼミの学生で、カンボジアが大好きな学生がいる(現在は横浜市小学校の教師)。
彼はカンボジアで実践したぼくの「命のディスカッション」に衝撃を受けた(詳しくは本ブログカテゴリー「優しさの国カンボジアで」の「カンボジア研修とコロナⅥ いのちのディスカッションプログラム」を参照)

「国が変わると、こんなにも命に対する考え方が違うのか」と。

そこで彼は、そのことについて卒業研究に取り組むことにした。
日本の道徳の授業をカンボジアで実践すると、どうなるのだろうという課題を持って、4回生の12月にカンボジアに行き、授業を実践した。
本来であれば小学校で実践するべきだったが、彼は「命のディスカッション」と関連させたかったのだろう。
そこでカンボジア・メコン大学で大学生を対象に「手品師」の授業を実践した。

「手品師」の題材とは、売れない手品師の物語だ。


大きな劇場で手品師としてデビューすることを夢見ていたが、なかなかチャンスが訪れない。
そんなある日、男の子と出会う。
この子供に手品を見せるととても喜び、「明日も見せてね」と約束する。
だが子供との約束の日、友人から大きな舞台への出演を持ちかけられる。
そして葛藤の末に、手品師は舞台への出演を断り、少年との約束を果たす。

この道徳教材の内容項目は「正直、誠実」だ。

この物語には、エッセンスとして

「手品師はパンを買えないほど貧しいが、夢を大切に生きている」

「男の子は家族がいなくて、いつもひとりぼっちで過ごしている」

この時点でぼくには、何が「誠実」と言わせたいのか相当な強さで「誘導」しているような気がするが。

では、カンボジアでの実践はどうなったか。

ゼミ生は物語を紹介し、手品師の最後の行動を話す前に学生たちに問うた。

「手品師は、どうするべきですか?」

ガンボジアの学生たちは少し頭を抱えた。
悩ましいという表情を浮かべていた。
さまざまな意見が飛び交ったが、ある学生が立ち上がってこう言った。

「少年との約束は大切だけど、舞台に上がるチャンスを棒に振るべきではない。経済が大切だ。お金を得るチャンスを掴もうとすることが誠実だ」

この学生の発言に、教室にいたカンボジアの学生たちが拍手喝采を送った。

これは、カンボジアという国の経済的な事情と、そこで生きてきた若者の感覚というものがあるだろう。
しかし、改めて日本の道徳の授業が、いかに固定的な徳目主義で進められているかを感じざるを得なかった瞬間だった。

日本の小学生が教室で、先のカンボジア学生の意見を主張したとき、拍手は起きないだろう。

そのような意見を主張できる世の中(学級、授業)が必要だ。

そのような意見を持ち、主張できる子供を育てていくことが大切だ。

それが「同調圧力」の学校、世の中から成熟する道へと繋がっていく。

それはすなわち、いじめを防止していく過程となっていくのではないだろうか。

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