災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」~ 9 福島県からの教訓

災害と歳月

2011年3月11日に発生した東日本大震災では、地震による津波災害という、2次的な災害によって大きな被害を被った。
その中、地震動と津波による3次的災害が発生した。
それが福島第一原子力発電所事故である。
福島第一原発は、地震発生後、およそ24時間後の1号機の水素爆発から始まり、15日の4号機爆発まで事故が続いた。
事故の発生により、放射線量(以下、線量)の状況は深刻化し、政府は11日21時に周辺住民に対して「半径3㎞圏内避難・10km県内屋内退避」を指示した。
しかしその後、水素爆発の発生等の状況悪化により、避難範囲は繰り返し拡大され、この事故による避難住民はおよそ15万人に達したのだった(原子力安全に関するIAEA閣僚会議に対する日本国政府の報告書-東京電力福島原子力発電所の事故について- 平成23年6月 原子力災害対策本部)

それから6年半が過ぎたころ(2017年7月)、ぼくはある研究グループで福島県を視察する機会に恵まれた。
6年半という歳月は、たとえば小学校であれば、入学した児童が卒業し、中学生として歩んでいる長さの歳月である。
2011年3月11日に生を受けた子が、小学校1年生になる。
その期間、そして今もなお、福島県では除染作業が続けられ、故郷の復興が願われ、それは未だ叶わぬ地区が多くある。
2017年夏、福島県を訪問し、研究調査を行って実感したことがある。
6年半という歳月は、福島第一原発事故から故郷を取り戻し、子どもたちを地域に戻し、前向きに日々を再興するには、あまりも短い歳月なのだということだった。
福島は、ぼくが想像していた世界とはまるで別のものだった。

6号線から見た福島の現実

福島大学から、「うつくしまふくしま未来支援センター」のお二人の車に乗せていただき、「車窓から」福島を見た。
なぜ車窓からなのか、わずかながらの疑問を抱きながら出発したのだが、その道中で答えは明白になった。
福島市内から川俣町、飯館村を走りながら、草むらとなった田畑を多く見た。

草むらと化し、人の手が入ることのなくなった田原。
そこには、除去された放射性物質が黒い袋に入れられ、ずらりと並べられていた。


飯館村は自主避難地域だったが、それでも住民の100%が避難し、現在でも数%の住民しか戻ってきていないのだという。
農家が多い村で、農業を再開できず、そこは草むらと化し、就業できない日々の生活は高齢者の健康被害にも結び付いている。
そして6号線入り、南相馬市から小高、浪江方面を走る中で、景色は一変していく。
人は誰も歩いていない。信号もすべてが点滅で、電光掲示の「歩行通行禁止エリア」という文言に目が留まる。

車窓から。 「帰還困難区域」の文字に現実を知った。

6号線沿いのすべての脇道はバリケードで封鎖されており、防護服姿の警備員が物々しく立つ。
脇道がないから交差点もなく、信号の必要がない。
このような景色が、日本のどこにあるのだろうと感じた。
異次元の、そこだけまるで隔絶された場所だった。
「帰還困難区域」という看板を何度も目にした。
震災前、そこで人々は暮らしを、人生を営んでいたのだ。
双葉町から大熊町にさしかかるころ、左手の海側に巨大で黒い建造物が見えた。
あそこが爆発して漏れ出た、目に見えない放射線が、今でも人々の人生や地域の様相を変えてしまっている。
あらためて災害がもたらす脅威を感じた。

(次回へと続く)

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