Global Perspective 1 〜日本語教育の視野〜
– 2024.March カンボジアスタディーツアーから

2024年3月のカンボジアステディーツアーから帰国した。

今回は2大学の学生合わせて10名のツアーだった。
現地の多くの協力があり、学生にとって大きく貴重な体験ができた。
願わくば、現地の学生、人々にとっても価値ある交流であったことを願いたい。

そういえば、現地の友人とリバーサイドのカフェでビールを飲んでいるとき、彼はこんなことを言った。

カンボジアにツアーに来て、日本の学生が得るものと現地の学生が得られるものを対比すると、8:2ぐらいじゃないですか?それがロクヨン、あるいは5:5になれば最高ですね。

この視点はとても重要だ。
日本からカンボジアに来た学生は(私も含めて)、現地で何かを得ようと貪欲になる。
そのことは悪いことだはないし、それぐらいの貪欲さでツアーに臨む学生は見込みがある。

だが、同時に、現地の人々、学生はその「道具」ではなく、対等な立場であることを常に言い聞かせ、自覚しながら現地にいるべきだといつも思う。

このように、現地の人々と話すたびに意味ある示唆がいつも得られる。

CMUのH先生とは10年来のお付き合いになる。
温厚で、かつ熱く、お金より自分の道を地でいく尊敬してやまない先生。

今回の訪問中、H先生からこんな話を聞いた。

その前日、H先生は日本語教育のシンポジウムに参加した。
そこには、現地でカンボジア人に日本語を教える教員(学校や送り出し機関など)が集まっていた。
シンポジウムの中で、カンボジア人の弁護士がこのように発言した。

カンボジア人に日本語を教えることは、多文化や多様性にはつながらない。
それは、差別の助長へとつながる行為だ。

私はその話を聞き、「戦時下植民地における日本語教育」に思いを馳せた。

じつはこのタイトルは私が大学生の時の卒業論文のタイトルだ。

言語は、その国を代表する文化であり、民族のプライドを映し出しているものかもしれない。

台湾に旅行し、現地の人が流暢に話す日本語を聞いて「台湾の人は親日だ」と言うことの浅はかさは、日本の教育におけるカリキュラムが生み出した弊害だろう。

そんなことも、学生たちには感じ、体験し、学んでほしいと思う。

今回の旅では、彼の国(カンボジア)に日本の教育を「持ち込む」ことについて考えさせられる「苦い」経験をした。
次回、そのことについて話したい。

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