“ceis”「その先の教育へ」とは

コロナ禍の新任教師

このたび、ぼくがこのブログを開設しようと思い立ったきっかけは、間違いなく「コロナ」だろう。
今この時点でも、勤務する大学は遠隔、課題授業が継続されている。
学生は諦めムードで日々を過ごし、学校は正解のわからない日々に翻弄されている。

2020年の4月。初めての緊急事態宣言と、全国学校休業要請のさなか、3月にぼくのゼミを卒業した学生たちが新任教師として教壇に立っていた。
いや、立とうとしたが立てなかった。
担任するはずの子供たちにも会えず、課題を「ポスティング」する日々。
ある元ゼミ生の新任教師が、4月の半ばを過ぎたころ、ぼくにこんなLINEメッセージを送ってきた。

「このままだと私たち、来年の新任教師と同じ実力ですよね」

子供たちと出会い、教壇に立ち、授業をして改善をし、また翌日の授業にチャレンジするという「経験」を積み重ねられない焦りが、その言葉を生んでいた。

2020年の新任教員は稀有な存在だろう。そして、2020年4月以降の学校教育は重要な歴史の1シーンを刻んでいる。
多くの課題が表出し、学校現場ではその対応に追われ、あるいは立ち向かってきた。
授業時数の捻出、学校行事の精選や縮小、有効な遠隔授業の方法、居場所としての学校の機能、学校や児童生徒の安全、そして教師の仕事とは・・・。
「その場しのぎ」であってはならない。考え、議論し、ひとつひとつに打ち勝ってきたはずだ。
それらを記録し、語り、共有し、検証していかなければ、また同じことを繰り返す。
過去における事件、事故、災害の教訓を、「その先の教育へ」つなぎ、生かしていく営みが必要だ。

“ceis” Contemporary Educational Issues Study 現代教育課題を研究し、語り、「その先の教育へ」つなぐ。

これが、本ブログの目的だ。

ブログの3つのストーリー

 このブログでは、3つのカテゴリーでストーリーを展開していきたい。

ひとつめは「どうすれば子どもたちのいのちは守れるのか」という課題。
これは、ぼくの大学教員としての専門「学校安全と安全教育」に依拠する。
教師としての背景に繋がっていて、いつか詳しく話していきたい。
あるいはこのタイトル(「どうすれば子どもたちのいのちは守れるのか ー事件・災害の教訓に学ぶ学校安全と安全教育」ミネルヴァ書房、2017年)の拙著があるので、関心を持つ方は手に取ってみてほしい。
したがって、このカテゴリーでは学校、子供の安全(命)に関連するストーリーを展開したい。

ふたつめは「なぜ教師は、憧れの職業ではなくなったのか」
痛烈な課題だが、目の前の学生たちをみていて実感することだ。
学生たちの目の前には、教師の不祥事、教師いじめ問題など、目を覆いたくなる話題が突き出される。あるいは学校、教師の「多忙」が「やりがい」を抜きにして語られる。教育実習に行けば、疲れ果て、苛立つ教師の姿をみる。それを見聞きしながら、教員採用試験に取り組むうちに、その熱から覚めていく。

それでいいのだろうか。本当にそうなのだろうか。
これは本にしようと思って書き始めている。それをこのブログで共有しながら完成させていくつもりだ。

みっつめはおまけ。「もう一つのカリキュラム論 ー1人の生きる道ー」
これは、ぼくが大学で担当している授業「教育課程論」の冒頭に展開しているものだ。
そもそも「教育課程論」とは学生にとって、ましてや教師になることを選択しない学生にとって、かなりつまらない学問だろう。だからせめて、カリキュラムという用語を使い、その解釈を広くして授業を展開してきた。
ぼくが研究し、解釈してきたカリキュラム論とは、言い換えると「私が生きる道」であると思う。その人の生き様やオピニオンは、どのように形成されたのか。それはカリキュラムと結びつく。
だから学生に、話題になったニュースを提供する。
例えば最近だと、プロゴルファー松山英樹選手のマスターズ優勝。そのかげで、松山選手のキャディーが、誰も見ていない18番グリーン上でコースを振り返り、帽子をとって礼をした。その一つの行動が世界中で話題になった。
そこから、日本人の礼儀とカリキュラムについて考えてみる。道徳教育はどのように位置づいてきたのか、それが要因なのか、ディスカッションする。
思いのほか、学生たちはニュースを知らない。そしてこのような話題提供にけっこう乗ってくる。
半分以上、趣味の世界だが、何かが見つかる気もするので投稿していくつもりだ。

ということで、本ブログはこの3つのストーリーで展開していきたい。



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“ceis”「その先の教育へ」とは” に対して2件のコメントがあります。

  1. 樋口浩章 より:

    ポルポト時代を知っている人はカンボジア人は凶暴な人かと思うかも知れませんが、決してそのようなことはなくとても穏やかな人たちです。カンボジアでは日本や欧米のような学校を舞台に銃乱射したり、刃物で子供を切りつけたりする事件がほとんどありません。しかし、それが何故なのかと考えると正直なところ明確な答えは思いつきません。日本のいじめは陰湿ですがカンボジアは喧嘩はあるのですが、日本のような陰湿ないじめがないことも注目すべき点だと考えております。

    1. noriomatsui より:

      樋口先生
      コメントをありがとうございます。
      カンボジア人がとても穏やかで、笑顔溢れる人々であることは、ぼくも、そして現地を訪れた学生たちも実感しています。
      では日本はどうなのか。
      また、先生や学生たちと「いのちのディスカッション」をしたいものです。
      このブログに、カンボジア紀行も書いていこうと思います。

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