不登校のWell-Being  4.不登校の展開

不登校の社会における認識が変容するという根拠として、これまでの不登校の展開について整理しておこう。

「不登校」までの認識の変遷

1930年代後半から1940年代。
学校に行かない子供たちは、「怠学」ではなく、神経症的な症状があるのではないかという研究が広まった。
そこで、Johnson(1941)が、学校に行けない状況(症状)を”School phobia”(学校恐怖症)と名付け、学校に行かない子供たちは一種の病気(情緒障害)であるという認識が広がった。

その後、Johnson(1957)は学校に行かない子供たちの症状を母親からの分離に対する不安症状だとして、「分離不安症」という考えを示した。
そこから「学校恐怖症」という病理的な名称が改められる風潮となり、日本における文部省(当時)も「学校ぎらい」という名称を採用するに至った。

その後、1970年代以降、「学校ぎらい」は病理的な症状ではなく、一般的な不適応行動であるとみなす風潮となり、学校に行かない子供がその行動を選択しているという、主体のトランジションが行われ、「登校拒否」という名称が一般的となった。

この頃、1980年代から90年代にかけて、「登校拒否」の児童生徒数が10万人を超え(2022年度統計では22万人を超えている)、大きなニュースになっていた。
そのなかで「登校拒否」は「誰にでも起こりうるものである」という見解が文部省(1989)から示され、「不登校」という名称に変更された。

これが「不登校」における認識や名称の変遷になる。
かつて不登校児童生徒が情緒的な障害を持っており、病院で治療を受けるような認識だったことについて、今では驚かされるかもしれない。
しかし、どのような事象や認識も、社会の変遷(発展)とともに変わるものだ。
たとえば、かつては教室に1人や2人はいた「喧嘩っ早い子」や「落ち着きのない子」は現代ではなんらかの発達的課題と捉えられ、特別な支援を要する子供という可能性が模索される。
そのように、研究は発展的に展開され、目の前の子供たちに実践されてきているということだろう。

そのように考えると、「不登校」の児童生徒に対する支援のあり方も変わっていくことは必然と言える。
だが、それがどのように変わるのかが問題だ。
今現在は、不登校は「誰にでも起こりうる」と認識され、「教育機会確保法」が整備された。
しかし、それでも不登校の子供たちは不安と苦しみの中にいて、その親は自責と不安に苛まれている。
要するに、不登校に対する認識を変えようとはしているが、社会全体がそこに呼応できていない。
なぜなら、日本の社会はいまだに「学校社会」だからだろう。
学校に行っていなければ、社会に出て幸せな人生を送ることができないという不安を煽る構造となっている。
真の意味でのWell-Beingからは程遠い社会構造と言えるだろう。

だが、そんな社会が変わることを、今苦しんでいる子供たちは待つことができない。
待ってはいられない。
だから、その子供たちが幸せに生きることができる方法を考えて、実践していきたいと思う。

イノベーティブな、革新的な不登校児童生徒支援について、少しずつ紹介していこう。

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