附属池田小事件 20年〈その1〉教訓をどのように生かすのか

伝承されてこなかった事件

 実は、ぼくは大阪教育大学附属池田小学校(以下、附池小)で、2005年から2014年まで教員をしていた。
そして、2014年から大学の教員になった。
附属池田小学校で研究し、実践してきた「その先」を、さらに研究し、深め、伝えていくためだ。
今年、2021年6月8日。事件から20年目の日を迎えた。
ぼくは教師を目指す学生数名と、献花に行った。
その時の話も含めて、何回かに分けて附属池田小学校事件について伝えていこうと思う。

校長室の遺影
ここにくると、誰もが思わず手を合わせる


附池小に不審者が乱入し、幼い児童8人が命を失うという、世を震撼させた事件が発生したのは2001年6月8日のことだった。
事件発生時、ぼくはT市の公立小学校で教員をしており、昼休みに職員室のテレビで事件を知った。
テレビには、ぼくが学生のときに教育実習を受けた校舎が映っていて、テロップには「児童殺傷」という文字があった。
理解するのに時間がかかった。
当時、学校は安全で守られたところであり、学校で児童が命を失うことなど、考えられないことだった。
2001年の事件の2年前に京都市で発生した、児童殺傷事件の「その後」が実証している。
1999年12月に京都市伏見区の小学校に不審者が侵入し、校庭で遊んでいた小学校2年生の児童が刺殺される事件が発生した。
当然、大きな騒ぎになったが、注目されたのは「犯人の存在」であり、「学校の安全」への関心が高まったとは言えない。
誰もが、学校が舞台となるこのような事件は滅多に起きるものではない、という感覚だったのではないだろうか。
だから、1999年の京都市立小学校での事件の「その後」は生かされなかった。教訓が掘り起こされ、伝承されてこなかった。
そして2年後の2001年に、附属池田小学校事件が発生した。

附属池田小学校事件の「その先」・・・不審者対応訓練

 ぼくが附池小に赴任した2005年4月。事件当時、小学校1年生、2年生だった、事件時に大きな被害を受けた子供たちは、5年生、6年生になっていた。教室の机上には亡くなった児童の遺影が置かれ、事件は「続いて」いた。
学校は児童のケア(亡くなった児童だけではなく、体にも心にも、大きな被害を受けた児童が多くいた)と、事件を2度と起こさない「安全な学校」の構築に全力を傾けていた。
赴任当初、もっとも衝撃を受けたのは「不審者対応訓練」だった。
赴任してすぐの4月5日だっただろうか。1回目の(当校では年間5回の訓練を実施する)不審者対応訓練が実施された。
新年度、児童を迎える前に学校安全への意識を高め、体制を整える意味がある。そして、新任教員への洗礼の意味も。

それは、事前のミーティングからピリピリしていた。
ぼくのおぼろげな記憶だが、1人の教員が訓練に参加できない状態になった。
事件で犯人と対峙した教員の1人だった。
そのことだけでも、十分にショッキングだった。事件が残した多大な影響は、至る所にあるということだ。
訓練は、想像以上に激しかった。折しも、NHKがドキュメンタリーの制作で取材に入っていて、至る所にカメラマンがいた。
その訓練でぼくは、大きなミスを犯した。
「児童対応班」という役割のぼくは、学年3つのクラスの児童を、避難誘導することが使命だった。教室の扉を閉め、児童に(いないがいるかのように)声をかけ、廊下に出た。
その時、目の前に犯人(役の教員。もはや不審者なみの迫力)が駆け抜けようとした。その時、後ろから追っていた、大学時代にラグビー部だった同僚の教員が、オリャーと叫びながら犯人の背中から飛びかかり、引きずり倒した。
言っておくが、みな附属池田小学校の教員であり、同僚である。
目の前でそれを見たぼくは、ラグビー部同僚のサポートに転じ、一緒に犯人を抑え込んだ。
それでよかったと思った。
訓練終了後のミーティングで、「3年生の児童だけ、運動場に避難してきませんでした」という言葉を聞いた時、大きな穴の底へ突き落とされたような、大きなショックがぼくを襲った。
訓練の失敗は、児童の命に結びつくのだと実感した瞬間だった。

次回へ続く

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