災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」~ 1 震災をめぐる教師の「使命感」と「多忙感」への着目①
2016年4月。
応募していた研究助成が採択され、3年間の研究(安全教育をテーマに)を始めようとしていた矢先のことだった。
熊本県で震度7を2回観測するという、非常に大きな地震が発生した。
それまでぼくは、自身の教員として、あるいは研究者としてのバックボーンである大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件(2001年)の関連から、防犯カテゴリーに特化した研究を進めてきていた。
しかし、熊本地震における調査によって、震災と教師の役割について、強い関心を持つようになった。
本ブログでもこれまでに、そしてこの先もたびたび登場する研究同志の岡村季光先生(教育心理学)とともに、熊本地震を背景とした震災と教師について研究を進めることにした。
そしてこの研究で、何よりも力強い味方になってくれたのは、当時、熊本県、益城町立広安西小学校校長で、現在は山都町教育長の井手文雄先生だ。
井手先生の多大なるご協力のもとでぼくたちは研究を進め、ある一定の成果を挙げ、論文にして発表することができた。
また、研究経過をその都度、教育雑誌(教育PRO、ERP教育研究所)に投稿してきた。
本シリーズ「災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」(「事件・災害の教訓と学校安全」カテゴリー)では、雑誌投稿記事をリニューアルしつつ、再考を加えながら記述していきたい。
初めての熊本訪問 2016年9月8日ー9日
震災からおよそ5ヶ月経ち、頃合いを見計らい、また、熊本の高等学校の先生とご縁もあり、ぼくと岡村先生は第1回目の熊本地震調査に向かった。
伊丹からおよそ1時間のフライトで、まもなく熊本空港に着陸する態勢に入り、窓下を眺めて驚いた。
多くの家の屋根にブルーシートが掛けられている。
震災から5ヶ月だが、復興が遅れている様子が垣間見られる光景だった。
空港でレンタカーに乗り、避難所となっている総合運動公園に向かった。
しかしぼくたちは、何度も何度も車を止めざるを得なかった。
想像以上の凄惨な災禍の状況に、言葉を失っていた。
そして、ぼくたちはご縁があって、井手先生に出会うことができた。
井手先生は、ともかく明るく「闊達」を絵に描いたような方で、ぼくはすぐに大好きになってしまった。
そして、井手先生とお話しすることによって、強い関心をもった研究テーマができた。
それが本シリーズのテーマ ”災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」”だ。
この研究テーマについて、簡単に説明しよう。
現在、このブログの他のタイトルで執筆中の「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」で、TALISの調査を元に教師の「多忙感」に触れているところだが、震災時における教師の役割においては「平常時の多忙」をはるかに凌駕するものだ。
熊本地震でも、教師が避難所を運営した例がいくつかある。
その代表的な例が井手先生による避難所運営だ。
井手先生は、被災した自宅に帰ることなく、行政と協力し、ときには闘いながら避難所を運営した。
そして驚くことに、その言葉の端にすら、「多忙感」は感じられなかった。
そこにあるのは「使命感」そのものだったのだ。
井手先生に一度聞いたことがある。
「なぜ、そこまでして避難所に関わり続けたのですか」
すると井手先生は、少し俯いて考え、当たり前のようにこう言った。
「目の前に被災した人々がいた。ただそれだけです」
これが、研究テーマを象徴する言葉だ。
(次回へと続く)