大阪教育大学附属池田小学校事件22年目の日を迎える前に考えること① 学校の門を閉めるのか、という議論について
まもなく6月8日を迎える。
22年前のこの日、大阪教育大学附属池田小学校の授業時間中に暴漢が侵入し、小学校1,2年生の幼い子ども8人の命を奪った。
暴漢が侵入したのは、「開いていた自動車通用門」からだった。
そして、犯人は裁判で、
「この門が開いていなかったら入らなかった」
と言った。
そこから、学校門の一門化が全国的に展開された。
同時に、「開かれた学校」との矛盾に(本当は矛盾などしないが)悩まされた学校も多かった。
しかしこの話は、22年前の話である。
ところが、全く同じ話は今現在でも展開されている。
昨日(5月30日)、某所で講演をした。
学校関係者だけではなく、0歳から高校生までを預かる施設の新任研修だった。
講演ではいつも、附属池田小事件に関連する私の実体験、当時の教師の動きも話すが、それらはすべて、「過去の事件を教訓に、今の子供たちの命につなげる」ことが目的である。
ここでいう過去の教訓の一つに、
”門を開けていたから暴漢が侵入し、その結果子供の命が失われ、多くのものが重軽傷を負った”
ということがある。
だから、校門を閉めておくことは必要な危機管理であることは、もはや議論の余地はない。
だが、昨日の講演後、施設の代表者が私のところに来てこう言った。
「私たちの施設は、門と玄関を常に解放し、誰でも入ってこれるようにするのがモットーなのです。この施設を卒業した高校生なんかも、ふらりと訪ねてきてくれたりするので」
先日、埼玉県戸田市の中学校に、17歳の高校生が「誰でもいいから殺したかった」という動機で侵入し、教師を切りつけた事件があったことは、このブログでも紹介したところだ。
そんなことはここでは起こり得ないのではないか、という心理の正常化と、性善説的な発想と、これまで何もなかったのに急に門を閉ざすことは、体面的にやりにくいという管理的発想は理解できる。
しかし、「門を閉ざすと、心も、あるいは施設や学校の姿勢も閉ざすことになるのか」
ということを考えてみてほしい。
そんなことはないはずである。
門を開けているから「開かれている」という発想そのものがおめでたいと言わざるを得ない。
そのおめでたさは、根拠のない「日本は安全な国である」という認識からくるものであり、また、施設や学校の方針をトランジションする勇気がないためだろう(脆弱性)。
まずは失われた子供の命をしっかりと知り、見つめることから始めればいい。
その教訓を、今目の前にいる子供の命につなげ、この子供たちの命を必ず守るのだという強い意識で施設や学校の方針を決めるといい(反脆弱性)。
6月8日に失われた命は、22年経ついま、学校危機マネジメントにおいて何が必要なのか、何ができていないのかを語りかけている。