学校の反脆弱力⑨ 「犯罪撲滅という理想の脆弱性」

この話をするときによく例に挙げるのは、2件の痛ましい交通事故の話だ。

2021年6月28日。
千葉県の市道で、下校中の児童の列にトラックが突っ込み、5人の児童が死傷する事故があった(【画像1】)。

【画像1】
2021年6月28日 千葉県の交通事故現場

この事故のニュース画像を見て、私はすぐにある事故のことを思い出していた。
この事故から9年遡る2012年4月。
京都府亀岡市の府道で、登校中の児童の列に軽乗用車が突っ込み、児童、付き添いの保護者を含む3人が死亡し、7人が重軽傷を負った(【画像2】)。

【画像2】
2012年4月23日 京都府亀岡市の交通事故現場

まず、この2枚の画像を見比べてみよう。
とても似通った場所だということがわかる。
どこが似通っているのか。
それは、どちらの場所も「ガードレールがない」。
亀岡の場合は歩道らしき線は引かれているが、それが事故を防ぐディフェンス力があるようには到底見えない。

次の類似点は、どちらもそこを、「通学路にしていた」ことだ。

そして3つ目の類似点は、この2つのニュースが記憶に残るほど、マスコミはセンセーショナルに取り上げたことだ。
その内容とは、亀岡市の事故の場合は、加害者が「無免許で夜通し遊び、居眠り運転だった」ということである。
そして千葉県の事故の場合は、加害書のトラックドライバーが、「飲酒運転だった」ということだ。

「無免許運転の若者が運転する自動車が小学生の列に突っ込み、死者を出した」
「飲酒運転のトラックが小学生の列に突っ込み、死者を出した」

これが、二つの事故の総括になっている。

しかし、この事故が発生した大きな要因はなんだろう。
そこで、「無免許運転のドライバーが悪い」「飲酒運転をしたドライバーが悪い」と言っていては、このような痛ましい事故は何度でも起こるだろう。

なぜなら、「無免許運転」も「飲酒運転」も、けっしてゼロにはならないことは、歴史が証明してきているからだ。
犯罪者も、悪いことをする人間もいなくはならない。
それを減少させる取り組みは、もちろん必要だろう。
しかし、そこに頼るのは間違っている。
それでは、「子どもたちのいのちを守る」ことはできない。

この二つの事故、そして過去に起きた痛ましい事件を正視しなければならない。

この二つの事故が発生した大きな要因は、
「そこにガードレールを設置していなかったこと」
そして、
「それがわかっていながら、そこを通学路にしていたこと」
である。

日本のマスコミ、あるいは私たちは、事故や事件の要因をその加害者の状況に求めたがる。
このような事件や事故が発生すると、その加害者の生育歴などが取り上げられ、「だからこのようなことが起きたのだ」と結論する。
だから、9年経っても同じような場所で同じような事故が発生し、小学生の幼い命が失われるのだ。

加害者にその要因を求めるから、「教訓が生かされていない」

先日、現在進めている「反脆弱性の学校危機マネジメント」の研究でカンボジアを訪問した。
その経緯は本ブログの

「学校の反脆弱力④ 日本人の危機に対する脆弱性の正体」

https://ceis-kyouiku.com/2022/10/08/hanzeijyakuryoku-4/

で述べているが、調査の中で非常に興味深いことが示唆された。

調査項目(質問紙調査)に、「犯罪にあうことは、被害にあう本人の責任だと思いますか」という項目がある。

この質問に対して、日本人の多くは「そうは思わない」「わからない」と回答している。
一方で、現地で調査した対象者(大学生、小学生、中学生、工場勤務の大人、スラム集落の大人等)は、そのほとんどが「そう思う」と回答した。

カンボジアの人々はわかっている。
「犯罪者はいるのだ」ということ。
そして、そこから身を守らなければならないのは「自分自身なのだ」ということ。
過去にあった被害を学習し(教訓にし)、次に同じ目にあわないようにするべきだということ。

そこには「犯罪者撲滅の理想」や「道徳教育」の脆弱性は存在しない。
「反脆弱性の危機マネジメント」が存在する。

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