附属池田小学校事件 20年〈その3〉被害者遺族が伝えてくれたこと
事件を知らないコンプレックス
前回の記事(6月11日配信)でも述べたように、ぼくは2005年の春に附属池田小学校に赴任した。校内には、そして教師の中には、まだ生々しく事件そのものが残り、そのために日々が動いていた。
2005年度の卒業式(2年生で命を失った7人の子供たちの学年)と2006年度の卒業式(1年生で命を失った唯一の男児の学年)。この2度の卒業式で見た光景が、今のぼくを衝き動かしていると言ってもいいだろう。それは衝撃的で、あまりにも痛切だった。
この卒業式については、講演会などで話す必要があるときは話している。また、拙著「どうすれば子どもたちのいのちは守れるのか ー事件・災害の教訓に学ぶ学校安全と安全教育」(2017年 ミネルバ書房)に詳しい。いずれこのブログで語れる時がくればいいが、ここでは割愛することにしよう。
いずれにしても、この2度の卒業式を目の当たりにしながらぼくは、涙がこぼれ落ちそうになり、ガタガタと震える体を抑え込みながら、(絶対に泣いてはいけない。事件の場にいなかった自分が、この人たち、遺族や事件に関わった教師たちと同じ悲しみを共有できるはずがない)と、自分に強く念じ、歯を食いしばって涙を堪えたものだった。
その堪えが、数年間引きずる強いコンプレックスを生んだ。
「自分は、事件を知らないのだ」という、乗り越えようのないコンプレックスだった。
当時、被害者遺族は「事件時にいた教師」としか話をしていなかったと思う。まだ事件から4年ほどしか経っていなかった。事件時の教師は、その時どこにいて何をしていたのかにもよるが「子供を守れなかった教師」であり、責任を負うべき対象だった。しかし月日が経つ中で、「事件時にいた教師」はその事件の悲しみの共有者となったのではないか。そして遺族は、その痛烈な悲しみを唯一理解できる「事件時にいた教師」にしか、心情を吐露できないし、要望を伝えることもできなかったのだろう。
ぼくのような「事件後にきた教師」は無力だった。
そのことを自覚するたびに、塗り替えられないコンプレックスが明確になっていった。
遺族との関わりの中で
しかし、2005年度と2006年度の卒業式で、事件の被害児童たち(亡くなった8人も含めて)が卒業していくと同時に、事件時にいた教師は次々に附属池田小学校を離れ、地元の公立小学校に帰って行った。その中で、ぼくは事件を次代の教員たちに伝えていく立場を担う必要が生じてきた。
そして遺族ともできる限り積極的に関わろうとした。
しかし、配慮が足りずに叱られたこともあった。
やはり、あまりにも理不尽な形で最愛の我が子を失った遺族の悲しみは計り知れない。しかし、知ろうと、理解しようとする意識は必要だった。今の教師も同じはずだ。
ある遺族は毎年6月8日、祈りと誓いの塔の鐘を、塔に刻まれた8人の子供たちの名前をひとりひとり呼びかけながら、8回鐘を鳴らす。
近くに事件時にいた教師がいたら、その教師に「一緒に鳴らしましょう」と呼びかけ、8回の鐘を鳴らす。
一緒に鳴らす教師の嗚咽が聞こえてきた。
ぼくたち教員は周りでその様子を見ながら、その悲しみを共有しようとする。
その瞬間は、あまりにも悲しく、そして尊い瞬間だった。
あそこに呼ばれて、「一緒に鳴らしましょう」と言ってもらえるほど信頼され、歩み寄りたいと考えていたことも事実だ。
そんな日がやってきたのは、ぼくが附属池田小学校を離れて大学教員になった2年目のことだった。
当時のぼくは、附属池田小学校の元安全主任が大学教員になり、学校安全と安全教育の研究をしているということで、新聞やテレビなどのメディアに6月になれば取り上げられたりしていた。
その年の6月8日。多くの人に囲まれて校内を歩いていたその遺族はぼくを見つけ、「先生、〇〇新聞、見ましたよ。かっこよく写ってましたね」と笑いながら、冗談でそう言った。
そして祈りと誓いの塔へ移動し、いつものように鐘のところに行ったその遺族は、おもむろにぼくを手招きし、「一緒に鳴らしましょう!」と言った。
ぼくは鐘に歩み寄り、その遺族と一緒に鐘の引き手を持ち、ひとりひとりの名前を呼びながら鐘を鳴らした。
我が子の名前を呼んだとき、遺族は嗚咽を漏らした。それを聞きながら、ぼくはもう声が出せなくなった。
昨晩(6月12日)、テレビでその遺族の特集が組まれているのを観た。我が子を失った悲しみを乗り越えることはできなくとも、その悲しみを自身の役割に変え、悲しみを負って生きる様々な人に寄り添う姿を見た。
お元気そうでよかった。
改めて、ぼくでなければできないこと、自分の役割を果たして行こうと強く思った。
お世話になっております。最近はインターネットでNHKのニュースが聞けたりするので池田小のセレモニーの様子が紹介されて、カンボジアでも聞けました。女の子がこうしたことが起きない社会になればというようなことを言っていました。
そこではっとしました。私もそう思っていたし、欧米系の教育団体もそこを目指している人が多いと聞いていたからです。でも、本当のことを言うとそんな理想な社会など今の段階では絶対、実現しないように感じられます。科学やIT,医学が発展しても海外でも日本でも次々にこうした事件が発生しています。私の頭の中がぐるぐる回り始めたときにちょうど松井先生から連絡が来ました。私はどちらかというと工場や現場の安全でさまざまな問題を見てきたので、教育現場はまだ事故が少ないと感じていましたが、最近日本や欧米はとんでもない事件が多発するのでやはり何かが狂って来ているように感じております。どうすればいいか、イノベーションが絶対必要だと考えます。
カンボジア・メコン大学 樋口先生
コメントをいただき、大変ありがとうございます。
確かに、学校を背景にした事件、事故は少ないのは確かです。
しかし、無力な(幼い)子供が暴力によって、あるいは事故によって命を奪われることは、見過ごすことはできません。
先生の言われるように、”何かが狂っている”のかもしれません。
書きながら、それをそれを追究していきたいと思います。