「お別れ会での涙と教師になる資質」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.45

「新しい時代」の教育、という曖昧さ

2015年1月に文部科学省から発信された「高大接続改革実行プラン」は、センター試験の廃止や記述式試験の導入などがセンセーショナルにクローズアップされた。
だが結局のところ、受験生が翻弄されただけで記述式の共通テストは実施されなかった。

高大接続改革とは、高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の三者一体的改革であるという捉え方であり、重要な改革であることはわかるのだが、「教育改革」というものはどうも打ち上げ花火が多い。
この高大接続改革においても、「新しい時代にふさわしい」学力や人材を育成するというビジョンが土台となっている。
そもそも、「新しい時代」とは一体何なのか、全く具体性に欠けるビジョンを立てるから、打ち上げて終わりの改革、政策が多くなってしまうのだろう。
そのうち(もうすでに)、アクティブ・ラーニングなんて誰も言わなくなってくるし、カリキュラム・マネジメントだってそうだ。
その根本的な重要性はいつの時代にだってあるが、エンジンは同じで車種を変えて再発売を繰り返しているようなものだ。
そのような政策に踊らされて、学校現場は汲々としている。

だが、時代や社会を見つめ、その時代や社会の構造、構図の中での学校教育や教師像を再構成することは重要だ。
「昔はこうだったから、こうしなければならない」が通用していては、いつまで経っても教育や教師像のイノベーションが望めない。

「教師力」とは何か

今から10年以上前、尾木直樹氏(おぎママ)は義務教育特別部会の中で、「教師力」を①子ども理解力、児童・生徒指導力②学級づくりの力③学習指導、授業づくりの力④同僚性の確かさ⑤人格的資質、の5観点で定義づけた。
これら5観点は、わかりやすい「教師力」の定義だが、それだけではないだろう。
時代、社会、場面でさまざまな「教師力」が発揮される。
現在の社会が必要とする教師力には、社会的な問題も含めた教育の現代的課題に対応する「社会的対応力」が不可欠であり、言い換えれば「人間としての強さ」も必要だろうし、「社会人基礎力」の定義の応用も必要だ。

そのような、時代や社会を見据えた教員を養成する構造として、大学における教員養成プログラム(教職専門教養や教科指導法、教育実習の事前事後指導)、現場体験型プログラム(教育実習、学校支援ボランティア)、教員採用システム(教員採用試験)の三位一体型教員養成の変革が必要な時代に来ている。

教育実習の評価(成績)の実態

そこで、教育実習の評価について考えたい。
教育実習の評価は通常、大学の評価様式に則り、実習校が成績をつけて大学に返すというシステムがとられている。
その評価項目の一例としては、4領域(基礎的事項・児童理解・教科指導・教科外指導)について、数項目の細分化された事項において5段階などで評価する方法が多いだろう。
また、記述式評価も加えて補完している場合もある。
だがその評価の実態として、規定日数を消化した学生に「不可」をつけることはまずないと言える。
時には議論があるが、「落第点」をつけることはまずない。
一度このようなことがあった。

ある年の教育実習で、ぼくの学級に2名の学生が配属された。
1名は女子学生で、もう1名は英語科の男子学生だった。
どちらも一生懸命実習に取り組んでいたが、男子学生にはある能力が大きく欠けているようにぼくには見えていた。

休み時間は子どもたちと関わるでもなく、自席にじっとたたずみ、授業では笑顔ひとつ見せず、淡々と目を虚空に向けて、シナリオを読むように授業した。
当然、子どもたちはその学生には寄り付かず、「異物」でもみるかのような雰囲気が教室に漂っていた。

子どもたちが下校した後、1日の反省を実習生と行うが、ぼくはその実習生に、教師になりたいのかとさりげなく聞いた。
実習生は即座に、「なりたいです」と答えた。
幼いころからの夢だったという。

この学生が大きく欠いているコミュニケーション力は、大学の成績評価には該当する項目が見られなかった。
評価会議では、落第させることはない、採用試験が最終の評価を下すだろうと、「可」の成績がつけられた。
確かに正直なところ、1ヵ月の間この実習生とともに過ごしてきて、教師には向いていないのではないか、という思いが日に日に私の中で強くなっていった。
しかし、夢を諦めたり醸成するのは本人だ。
ぼくたちにできることは、学生が夢を叶えることができる道標となる、一体化した「評価と指導」だろう。
評価はそこで終わりなのではなく、評価から課題を見出し、指導に結びつけることができなくてはならない。
この実習生のように、教師になる上でのコミュニケーション力に大きな欠落が見られたとき、大学の事後指導で、引き続き対策、指導していく必要があるだろう。
教育実習は、夢を諦める場ではなく、課題を見出す場でなくてはならないし、そうあってほしい。

お別れ会に見る教師としての資質

1ヵ月の教育実習が終わろうとするころ、学級の子どもたちがそわそわし始める。
実習生には見えないところで手紙を書き、お別れ会の準備を始める。
これは、担任として提案したことも強要したこともない。
子どもたちが自主的に発案し、計画し、時間割を調整してほしいと願い出てくる。
ぼくはこの教育実習のお別れ会で、本当に多くの涙を見てきた。
そこで気づいたのは、お別れ会での涙は、惜別と口惜しさが混ざっているということだ。
実習生はまず、子どもたちからの手紙を見たときに涙を流す。
そして、最後に挨拶をしているときに涙を流す。
その挨拶では、必ずと言っていいほど、実習生は自分の不甲斐なさを口にする。
不甲斐なさとは、まさに課題の発見だ。
お別れ会の涙とは、単なるセンチメンタリズムなのではなく、子どもとの出会いと別れを惜しむことができる、教師としての最重要な資質の頭角であり、悔しさは課題の発見であり、教師になるための道標なのだ。

前述のコミュニケーション力に大きな課題があった実習生の、お別れ会のときの様子を思い出す。
6年生の子どもたちは、最後にその実習生を笑わせようと、あの手この手の計画を立てていた。
教室の真ん中に椅子を向かい合わせ、子どもたちが入れ替わりながらその実習生とにらめっこをしていた。
5人、6人と入れ替わり、学級内でとてもユニークな男子の番が来た。
子どもたちは期待でいっぱいの、きらきらした目で実習生を見ていた。

そのにらめっこの瞬間、実習生の顔がふっと破願し、一笑した。

その瞬間、教室中が沸いた。
実習生は、1ヵ月でぼくが引き出すことができなかった、はにかんだ笑みを見せていた。
彼はこのひと時を忘れることはなく、夢を追う原動力としただろう。

これが、教育実習の最も大きな価値なのではないだろうか。

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