「大学と小学校、教育実習におけるそれぞれの役割」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.40

前回の論考の最後に、大学の教育実習に関わる事前事後指導を含めた取り組みは、実習生の夢を左右するほどの質を、保障することができているのだろうか。
またあるいは、実習生を受け入れる側の学校は、実習生の夢を育む体制と制度は整っているのだろうか。

という問いを投げかけた。
そこで今回は、学生の将来、あるいは教育の根幹を担う教育実習そのものの質について、実習生を送り出す大学と、受け入れる小学校の二つの立場から考えてみたい。

送り出す大学と、受け入れる小学校、それぞれの役割

まず大学だが、教育実習とはその進行段階を、事前指導→教育実習→事後指導という段階的順序で実施されるのが一般的なカリキュラム構造となっている。
教育実習は体験的に学ぶ場であり、日々を夢中になって過ごす。
学生であった立場から突然実社会に入り、実習生と言う立場の遠慮は子どもたちには通用せず、まさに無我夢中の日々を送るものだ。
しかしそれだけでは、実習が終わった後は刺激的な思い出と、印象深い子どもの顔が、数年間だけ記憶として留まるだけで終わってしまう。
しかし、大学における事前・事後指導を充実させることにより、教育実習は真に教育現場で生かされ、教育現場で活用される力となるだろう。
事前・事後指導は1989年の教育職員免許法施行規則の改正に伴って、義務化されたものだ。
さらには、2004年に日本教育大学協会の「モデル・コア・カリキュラム」研究プロジェクトが、教育実習生それぞれの体験に基づいた省察(リフレクション)の必要性を提唱した「教員養成コア科目群」を提案した。
それを受けて、教育実習における事前・事後指導が大きな役割を果たすようになったという経緯がある。

一方で受け入れる学校はどうか。
ここには、大きく見て二極化されている現状がある。
ひとつは教員養成系大学の附属小学校における受け入れ体制であり、一方は公立小学校における受け入れ体制である。
体制を、意識と言い換えてもいいだろう。ここには、教員養成系大学の附属学校の存在意義(教育実習を行わなければならない)と、その理由を持たない公立諸学校(ただでさえ忙しい)の意識の違いが見え隠れする。

いい学校でいい教師が育つ

ちょうど昨日(9月29日)、ぼくのゼミの学生の教育実習先を訪問した。
素晴らしい学校で、学生はいきいきと学んでいた。
周りの先生方は、忙しい中でも本気で実習生に関わってくれていた。
実習生の研究授業の協議会にも参加させていただいたのだが、ある教師が実習生の授業の板書の方法について指摘した。
その返答に実習生がまごついたとき、実習生の担任の教師が「ちょっと私から説明させていただいていいですか」
と、代わって発言した。
実習生がいかに工夫してこの板書をしたか、どのようなねらいがあったのか、そして、その工夫に私も学ばされた、と、熱く語った。
ぼくは涙が出そうになるほど嬉しかった。
担任の先生が、実習生にいかに親身になって指導してきてくれたのか、目に見えるようだった。
この実習生はいい教師になる、いや、ならなければならないと思った。
幸せな教育実習だと思う。

一方で、まさに「真逆の」学校もある。
昨年のある日、同じくゼミの学生の実習訪問に行ったとき、その某市の小学校の校長はぼくに、

「こっちはな、実習、受け入れたってるねんぞ!」

と怒鳴られた。

完全なるカス校長なので紙面も無駄だし、思い出すと熱くなってしまい、実名まで出してしまいそうなのでこの話はしないでおくが、「実習を受け入れたってる」という意識は残念なものだと言えるだろう。
そのカス校長も実習で多くを学び、教師になったのだろうし、誰もがそうだ。
次代の教師を育てるという役割を担っているはずだ。
校長がこうであれば、そこにいる若手教員の教育実習への意識も低くなるだろう。

忙しいのはわかるが、昨日の小学校とカス校長の小学校の違いはなんだろう。
いずれにしても、それぞれで学んだ教育実習生の学びの質と量、幸福度、将来性は変わってくるのではないだろうか。




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