災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」~ 20 熊本地震と阿蘇の学生たち②

2016年12月。
熊本地震からおよそ8ヶ月のその日、ぼくたちは南阿蘇村にある東海大学阿蘇キャンパス近辺を訪問していた。
倒壊したキャンパス、失われた「家」や「家族」。(本シリーズ19参照)

東海大学は阿蘇キャンパスの再建断念を発表。
しかし、ぼくたちは諦めない学生たちに出会った。

自ら被災状況を紹介する学生たち

東海大学阿蘇キャンパスで学んでいた学生は、
自らを宣伝塔とすることによって、
世論や大学を動かそうとしていた。

廃校となった小学校跡地が、彼らのベースキャンプだった。
そこでひとりの学生を紹介された。
彼らは東海大学阿蘇キャンパスで学んでいた、農学部の学生だ。
震災で学びの場を失い、アパートも、そこで共に暮らした仲間や大家さんという家族とも別れる運命となった。
もう一度ここで、「家族」と共に暮らし、ここで学びたいと強く願った彼らは、大学の非再建計画を自分たちの力で覆そうと、ボランティア団体を立ち上げた。
そして震災直後の写真を手に、当時頻繁に訪れてきた研究者や企業団体などに被災時の様子を説明する活動を行なっていた。

最初に崩落した阿蘇大橋の現場に行った。
まだ工事などが着工する前であり、その崩落の状況に驚きの声しか出ない。
脇のガードレールに花が手向けられている。
この崩落で、運転中の大学生が犠牲になった。

アパートの跡地に花が手向けられていた。

そしてしばらく歩き、広い更地の前にぼくたちは立った。
見ると、更地の真ん中に花が手向けられている。

「ここにはアパートがありました。ちょうどお花のあるところで、ぼくの友だちの遺体が見つかりました」

震災が若い命を奪ったことが、リアルに響いてくる瞬間だった。

またしばらく歩いていると、案内してくれていた学生が大きな声を上げた。

「お父さーん」

なんとたまたま、彼が暮らしていたアパートの大家さんが、倒壊したアパートの荷物整理に来られていたのだ。
学生も大家さんも、里帰りしてきた親子のように喜び合った。

笑顔いっぱいにダンスの練習をする学生たちの姿は
美しかった。

そして夕闇が迫ろうとする中、彼らのベースキャンプに戻ってきた。
そこでは、近く企画している復興イベントに向けて、大学生たちが当時流行っていた「恋ダンス」の練習をしていた。

震災で学ぶ場を失い、「家族」と暮らす場を失った試練を乗り越えながら、新たな未来を創り出そうとする、清らかなエネルギーを感じた。

最後に、案内してくれた学生にぼくは聞いた。

被災地から離れるとき

「4回生なら卒業だね。将来はどうするの?」

すると学生は、こんな話をしてくれた。

「ぼくは教職志望で、採用試験には今年落ちたんですが、郷里の岡山県の高校で講師をすることになっています。でも、後ろ髪を引かれる思いで。志半ばで、仲間をおいて行ってもいいのかと」

阿蘇キャンパスの再建に向けて運動している仲間を置いて、自分だけ郷里に帰ることに躊躇を覚えているという。
これは、被災地でボランティア活動をして、元の生活に戻っていく時の特有の感情で、研究報告もある。
被災地の惨状の中で夢中でボランティア活動をし、その期間を終えて帰った時、言いようのない虚しさ、そして罪悪感に苛まれるという。

ぼくは彼に言った。

「きみは教師になって、熊本阿蘇での活動を、今度は子供たちに伝えていく。教師として活動し、被災地の仲間を支えていけばいいんじゃないかな」

東海大学阿蘇キャンパスには、直下に断層が発見され、再建は断念された。
そこは2020年に、「震災遺構」として生まれ変わった。
阿蘇キャンパスにあった農学部は、阿蘇を離れ、益城町に新たな校舎が整備されることになった。

学生たちは今も、黒川地区のアパートの大家さんたちと、交流を続けているという。


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