沖縄戦「慰霊の日」に
事件、災害の教訓は、「誰が」「どのように」伝えるのか
勤務する大学では今週から対面授業が始まった。
ぼくは今日、およそ2ヶ月ぶりに対面で授業をした。
「教育課程論」の授業だが、伝えたいことが溜まっていたのか、90分の授業で話し通しだった。
それでも、頷いたり笑顔になったり、うつらうつらしている学生たちの「表情」を見ながら話すのは、やはり楽しかった。
授業が終わった後、1人の女子学生が片付けをしているぼくのところに来た。
何か言いたげに。
そしてこう言った。
「先生、今日は何の日か知っていますか?」
ぼくが授業の中で、
「6月8日は附属池田小学校事件から20年だった」
という言葉を言ったからだろう。
そんな推測はできたが、6月23日が何の日かはどうしてもわからなかった。
「わからないな。教えて」
と正直にいうと、その女子学生は教えてくれた。
「先生、今日は沖縄戦が終わった日なんです。沖縄では、今日は学校もお休みなんです」
そして、沖縄出身の女子学生は続けた。
「やっぱり、松井先生でも知らないんですね。すみません、試すようなこと、してしまって」
ぼくは彼女に、「ありがとう、教えてくれて」と言った。そして、本当に大切なことを教えてくれたと思った。
ぼくは附属池田小学校事件の側にいたから、6月8日がとても大切な日になっている。
奈良市の教育委員会からの依頼を受けるようになってから、11月17日、楓ちゃん事件が発生した日が大切な日になっている。
東日本大震災の「そば」(何らかの関わりがあるという意味で)にいる人は3・11がとても大切な日だし、9・11にはニューヨークで同時多発テロが発生した。ものすごく多くの人が、この日に手を合わせるのだろう。
世界中で、それぞれの人にとって大切な日がたくさんある。
伝承の「強さ」の問題
それぞれにとって大切な日は、それが事件や災害でれば「教訓」を伝承していくことは、その後の命に繋がっていく重要な試みだ。
イッテンイチナナ(1・17)
1995年1月17日。6434人の犠牲者を出した3・11(東日本大震災)以前の大災害だった。
ぼくは毎年、ゼミの学生とともに1・17の集いに参加する。
前日の1月16日に神戸に入り、みんなで1泊。この時点では、学生たちは半ばゼミ旅行気分。
しかし翌朝4時半にホテルのロビーに集合し、凍てつくような寒さの中、みんなで神戸の東遊園地にある会場へ向かう。
暗闇の中、多くの人が会場へ向かう人々の姿を見て、その「特別な日」に学生たちは気付き始める。
到着したら、竹灯籠に火を灯す。
その荘厳で神妙で、敬虔な雰囲気に学生たちは浸る。
5時46分。
数千人の人々とともに、黙祷する。
数千の静けさ。
そこに聞こえてくる、啜り泣きの声。
朝焼けの中、みんなでホテルに向かってぶらぶら歩きながら、明らかにゼミ旅行気分ではなく「学び」に来た姿勢の学生たち。
「先生、ぼくの隣で泣いている人がいました。阪神淡路大震災って、遠い昔の話と思ってたけど、近い人を亡くした人がいるんだって、実感できた」
彼らの中で、1・17が「大切な日」になった瞬間だろう。
このように、「体験的」に教訓が伝承されていく過程は価値がある。
しかし、「伝承」について、ぼくはとても考えさせられる場面を体験した。
しれは阪神淡路大震災の遺族が講演する会に参加した時だった。
その遺族は、語ることによって伝承する役割を自ら担ってきた。
附属池田小学校事件でもそうだが、遺族にとって「語る」ことは、身を削る。
ぼくたちが簡単に想像できないくらいに。
それだけに、語ることを選択した遺族は、その使命感たるや半端なものではない。
それが、「伝わりにくい強さ」をうむ。
ぼくが参加した講演会で、阪神淡路大震災で我が子を亡くした遺族は、熱く熱く語りながらこう言った。
「なぜ、体験者と非体験の壁を作るんですか。そこを乗り越えて、こちらにくる勇気をもってください」
その時、ぼくはあることを感じた。
これは、ぼくが少なくとも、附属池田小学校事件に関連して、大きなジレンマを抱えてきたからこそ言えるのだと理解して聞いてほしい。
それは、壁を作っているのはその遺族であると言うことだ。
体験は強烈なパワーを持ち、非体験者はそのパワーを永遠に手に入れることはできない。
だから、体験者は語り方と要求を変えなければならない。
目線を合わせる必要がある。
これは、ぼくが附属池田小学校事件において、非体験者でありながら当事者であるような立場、だからこそ実感できることだ。
またこの先で続きを話したい。