学校の反脆弱力⑧ 「道徳教育の脆弱」

2017年以降に改定された学習指導要領では、それまでは一つの「領域」であった学校におけるど道徳は、「特別の教科 道徳」として教科としての性格が付与された。
このことによって、「道徳科」は各学年で週1時間の授業が必須となり、学期末には評価(成績)が付けられることになった。
この経緯としては、「いじめに関する痛ましい事案」(当時の文科大臣)への対応があり、道徳科はいじめの防止への期待が背景となって発足した。

道徳科には「内容項目」というものがある。
この「内容項目」が道徳教育における脆弱性を招いていることについて、論じてみよう。

「内容項目」とは、「その全てが道徳科を要 として学校の教育活動全体を通じて行われる道徳教育における学習の基本となるもの」(学習指導要領)とされており、道徳科の授業を実践するときには、題材による「内容項目」の設定が必要となっている。
これまでに見てきた多くの(全ての)道徳の授業案には内容項目が示されていた。

「内容項目」とは、例えば「善悪の判断, 自律,自由と責任」「正直,誠実」「節度,節制」「親切,思いやり」といったもので、各授業はこの内容項目を「身につける」ことが目標になっていることが実態である。

要するに、例えば「親切、思いやり」を内容項目とする授業では、「相手のことを思いやり,進んで親切にすること」が大切であると理解することが重要であるということになる。

この内容項目は、教師の授業における方向性を縛り、その結果、子供たちが「いいことを言う」授業で終わる。
このような教育を続けていると(これまで続けてきた)、多様性、あるいは多様な考え方に対する感覚、感性を育てることはできない。

たとえばこんな話をしよう。

「手品師」というポピュラーな道徳教材がある。

売れない手品師が男の子に手品を見せる約束をした後、友人から同じ日に大舞台のマジックショーへの出演依頼を持ち掛けられる。手品師はマジックショーへの出演を断り、男の子に手品を見せる方を選択する。

この教材の内容項目は「正直、誠実」である。
すでにマジックショー(個人的な利益)を断り、少年との約束を守ることを選択することが「誠実」であるかのように感じられる。
ある授業者の指導案にはこのように書かれている。

ねらい「夢、男の子との約束、どちらをとるかという手品師の心の葛藤について考えることにより、自己利益を超えたすがすがしい心を感じ、自分もそんな心をもって行動したいという実践意欲をもたせる」

あるいは「男の子に対する誠実さが自分に対する誠実さでもあることを自覚し、夢をかなえる機会を失っても心を曇らせることなく明るい気持ちで手品を演じた手品師の姿を通して、良心に従うことの良さを実感させたい」

すでに教師がこのような「ねらい」を持っている。

手品師がどのように行動すれば「誠実」と言えるのか、答えはほぼ決まっており、子どもたちはその「答え」を知っている。
そこにあるのは議論ではなく「同意形成」であり、そのゴールには「同質性」や「同調主義」がある。
日本の教育はこのように展開してきただろう。

また、このような「答え」もある。

「少年にあらかじめ劇場に行くことを伝え、劇場に招待する」
「知り合いに頼んで、少年に事情を話し、翌日、約束通り手品を見せることを約束する」
ストーリーにはない都合のいい展開を考え出すのは、決断力に欠ける優柔不断性に他ならない。

このような教育に疑問を抱いた学生が、発展途上国のカンボジアにあるプノンペンの大学で、「手品師」の授業をした。
学生の目的は、日本の学生とプノンペンの学生が「手品師」の話からディスカッションし、その考え方を交流するというものだった。

「手品師」の話を聞き終えた日本の学生は、このような考えをもった。

「劇場で手品をすることは大きなチャンスだけど、そのために少年との約束を破ることには気が引ける。賛成はできない」

この考えは、日本の教育において推奨されてきた考えであり、これが「誠実」の答えなのだろう。

そこで、プノンペンの女子学生が手を挙げて立ち上がり、自身の考えを朗々と述べた。

「私は、手品師は劇場へ行くべきだと思う。少年との約束を守れないことには心が痛むが、経済的なチャンスは2度とやってこないかもしれない」

この女子学生の発言に、プノンペンの学生たちは同意の拍手を送った。

日本の学生たちは、その圧倒的な意志とともに繰り出された発言に圧倒された。

そして、このような時に日本の学生たちの中で、一つの考えが沸き起こる。

「私たちの道徳観は、どのように形成されてきたんだろう」

そして一つの答えが巡ってきた。
1人の学生がこのように表現した。

「それは、小学生のころから習ってきた道徳の授業だ。これが正直、これが正しい、これが公平公正なんだよと、教えられてきたことが背景にある」

もちろん、このような「教え」が日本人の良さを形成してきたことは事実だろう。
サッカーW杯で、試合後に客席を清掃する日本人の姿は世界中で讃えられた。

その一方で、学生たちはもう一つのことに気づいている。

道徳教育での教えは、同時に「多様性」への認識を喪失、あるいは形成されてこなかったと。

これが正しい、これが誠実という道徳観は、それ以外の考え方を想定すらできずにいる。
プノンペンの学生のような考え方があるのだということを、ここに来るまでは想像すらできなかった。ただ日本にいただけだと、それを知らずにニュースだけをみて、日本人以外の考え方や行動を批判するだけだったかもしれないと。

これが、日本の道徳教育の脆弱性だ。

では、その脆弱性が子どもや学校の危機に対して、どのような脆弱に結びついていくのか、次の「犯罪撲滅という理想の脆弱性」で論じよう。

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