学校の反脆弱力③ 「学校安全における脆弱性」

反脆弱性 antifragile とは

「反脆弱性」antifragileとは、急進的哲学者と言われるナシーム・ニコラス・タレブが提唱した概念で、「脆弱性」fragileに対する相対的な概念としてタレブが創造したもの(造語)だ。これはレジリエンス(回復力、しなやかさ)とは似ているが違うものであり、同じベクトルにあるが、いわばレジリエンスの「その先」にあるものだ。レジリエンスは、とくに東日本大震災以降、災害に対する耐性を示す概念として広く謳われるようになった。それは「しなやかさ」という解釈がわかりやすいが、甚大な事件や災害に対して折れない、竹のように強くしなやかな心を表し、学会等でも取り扱われる汎用的は概念となった。一方、タレブが提唱する「反脆弱性」は、レジリエンスの「その先」にあるといえる。レジリエンスが「耐性」であれば、「反脆弱性」は事件や災害と「親和」する概念であるといえる。それは協調するという意味ではなく、化合するという意味が適当かもしれない。事件や災害は起こりうるものとして認識し、それに抗って耐えるのではなく、化合してそれを生かし、強さに変えるものという解釈になるだろうか。かなり難解な概念なので、このシリーズの中で実例を挙げながら理解していくことが必要だろう。そして、この「反脆弱性」の概念に触れていくうちに、私はそれを学校、あるいは学校危機マネジメントの研究に生かすことができるのではないかと考え始めた。
そこで、学校危機マネジメントの研究とタレブの理論を背景にしながら「反脆弱性」antifragileについて説明を試みてみよう。そしてそれを、「反脆弱力」antifragabilityという概念の形成へとつなげていく。

「安全・安心」の脆弱性

「反脆弱性」について考える前に、脆弱性の理解を深めておこう。
私たちの国では長らく、学校安全をはじめ、食生活などの社会生活において「安全・安心」が絶対的なキーワードになってきた。「安全・安心なまちづくり」「安全・安心な学校づくり」などの文言はいたるところで見聞し、それはマネジメント次第では達成できる世界のように解釈されてきた。
たとえば水害多発エリアで堤防、あるいはダムを築くかどうか、という議論がある。過去の風水害で何度も河川が氾濫し、人命を失ってきたエリアで、堤防やダムを築くことによって「景観」が損なわれる。そこでは、多くの場合「安全・安心か景観か」という二項対立的議論が生まれる。
しかし、この議論には一つの視点が欠落している。そもそも、堤防やダムを建設したとして、「絶対的な安全」が得られるわけではない。常に事件や災害はそのときにとって「最悪」なものであり、堤防やダムがいつやってくるかわからない災害(それをタレブは「ランダムで無秩序な」と表現している)に対応するかどうかは、誰にもわからない。したがって、“リスク・マネジメント“(危機管理)という概念や活動、研究そのものが、ある意味で謙虚に推進されるべきものだという気がする。なぜなら、リスクは管理したりコントロールしたり、予測することはできないからだ。実際には堤防やダムを作ることによって、一時的な「安心感」は得られるだろう。これで町は安全だ、次に大雨が来ても、河川は防波堤によって氾濫しない、私たちは、この町の誇りだった景観を犠牲にして、安全・安心を手に入れたのだと。
しかしその「安心感」は、じつは災害に対する「脆弱性」を生み出している。

2011年の東日本大震災の例について考えてみよう。「釜石の軌跡」と呼称された岩手県釜石市は、過去に幾度もの津波災害を受けてきた。そして釜石湾口に世界最大深の防波堤を築いた。この防波堤は、釜石市の人々にこの上ない安心感をもたらすと同時に、安全に脆弱性をもたらした。事件や災害が「ランダム」で「不確実性」に満ち、「無秩序」なものであるということは、それは突然、なんの前触れもなくやってくるという意味だけではなく、その規模も不確実でランダムであるということだ。したがって、世界最大深の防波堤が絶対的であるという過信は脆弱性を生み出す。現に、2011年の東日本大震災で、過去に類を見ない大津波は、いとも容易く世界最大深の防波堤を破壊した。そして、防波堤が自分たちの命を守ると信じていた人々の、多くの命が失われた。さらにいうと、その大津波は歴史最大の大津波ということではない。事件や災害は、いつも最悪なものなのだから。
次回、もう少し別の例を挙げて、「脆弱性」について考えていこう。

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