学校の反脆弱力② プロローグ−2「明らかにしていく、いくつかの脆弱性」
コロナ禍が明らかにしてきた、学校教育に関するいくつかの脆弱性とは何か。
そして、その脆弱性をどのように解釈しようとするのか、いくつかの例を挙げてみよう。
① 「いじめ・不登校・グローバリズムにおける脆弱性」
本研究では「いじめ」と「不登校」そして「外国にルーツを持つ児童生徒」について、日本の教育における脆弱性について検討する。これらの課題は、いつの時代にも形を変えつつも目の前に現れている。それは「不可抗な」側面や「不変化の」側面を持っているからに他ならない。しかし、考え続けることによって進化はあるだろう。例えば「学校恐怖症」という病気が「不登校」という認識に変化したように。
あるいはグローバル社会の中で、外国にルーツを持つ子供たちは、日本の「低多様性」の学校社会において、Well-Beingには程遠い生活を強いられている。外国人学校への取材などからその姿を描きつつ、これからのグローバルな学校社会について考えていく。
②「保健衛生面の脆弱性」
コロナ禍の当初、台湾はウイルスの蔓延の抑え込みに成功したように見えた。それは2000年初頭のSARS(重症急性呼吸器症候群)における負の体験を、反脆弱力に転換させたからだ。この辺りについては「保健衛生面」の項で詳しく述べるが、日本は未知の疫病に対して対抗する教訓の積み上げがなかった。「こんな時はこうする」「それがうまくいかなければこうする」という最低限の対応策を構築してこなかったから、リーダーが分散し、方針が統一せず、誰も何も信じられなくなっていった。
学校においては、毎年のようにインフルエンザの流行がある。その流行時における対応策は「出席停止」に終始してきた。「手洗い」や「換気」は予防策だが、この毎年の対策はコロナに対する反脆弱力としてどのように作用したのだろうか。また、2019年12月以降、学校の保健衛生は何を積み上げているだろうか。
③ 「学校教育構造の脆弱性」
学校の教育構造は、長きにわたって「何も変わっていない」。学習指導要領はミニマムスタンダードでありながら、学校教育現場ではスタンダードバイブルとして扱われてきた実態がある。だからコロナ禍でカリキュラム・マネジメントに学校、教師が主体となって取り組むことができなかった。2020年2月から6月まで実施された全国一斉学校休業要請で失われた時間を、特別活動や総合学習の時間、夏季休業を削ってでも捻出しようとする「生真面目」な日本の学校教育は、非日常のパンデミックで脆弱性を露呈したと言えるだろう。その脆弱性を教訓にして、反脆弱性へと転換するにはどうすればいいのか、検討する必要が十分にある。
これらの新たに発見、あるいは露呈した学校教育の脆弱性を、まずは明らかにしていく必要がある。そこには目を塞ぎたくなる痛みは生じるが、あえて冷酷に分析していこう。そこから、脆弱性が反脆弱性という「強さ」に変わっていくはずだ。
そこでまず、「反脆弱性」という概念について説明していこう。
(次回へと続く)