大川小学校の悲劇と教師の果たした役割 ②学校管理下で起きた戦後最悪の事故

大川小学校の悲劇は、東日本大震災における津波被害で、全校児童108人中、74人の児童が犠牲となった。
実際には亡くなった児童(遺体が発見された)は70人で、4人はずっと行方不明となっていた。

しかし、今年(2022年)1月。
石巻市長は大川小学校周辺の行方不明者の捜索を終了すると発表した。
震災から10年を区切りにするということだ。
遺族の思いは様々だろう。

したがってここでは、被害児童を74人と表記することにする。

108人の児童のうち、20人余りの児童は迎えにきた保護者と共に帰宅して避難するか、もしくは帰宅せずにいち早く避難したため、命を失うことはなかった。
そしてぎりぎりまで学校に残り、避難が遅れた児童のうち、4人の児童は奇跡的に助かった。

では、教師の被害状況はどうだったのだろう。

当時、学校にいた教師は11人で、校長は午後から休暇をとって地震発生時には学校にいなかった。
そして11人の教師のうち、10人が津波にのまれて命を失い、助かったのは1人の教師(以後、教師A)だけだった。

この大川小学校の悲劇は、「学校管理下で起きた戦後最悪の事故」と称されている。

「学校管理下」とは端的にいうと、授業や休み時間で学校にいるとき、遠足等の課外授業などを受けているときやその移動中、そして登下校の通学中ということになる。
したがって学校管理下においては当然、幼い子供たちを適切な方法や形で守ることが、教師に求められる。
だがこれを、「責任」という言葉で表現することは非常に難しい。
実際に、この大川小学校の悲劇においても、学校、不在だった校長、教師の過失も含めて長きにわたる裁判(大川小津波訴訟)が、遺族との間で展開された。

ここまで、大川小学校の悲劇に関連する資料を読んでいると、生き残った唯一の教師Aがまるで悪いことでもしたかのような記録もある。
1人生き残ったことが悪いような。

これは、学校管理下における事件、事故、災害においてよくみられる風潮だ。

たとえば、2001年6月8日に発生した大阪教育大学附属池田小学校における、児童殺傷事件が最たる例だろう(筆者はのちに勤務し、事件後の子供たちや遺族と関わった)。
この事件は、まさに「学校管理下における戦後最悪の事件」だった。

事件では小学校1、2年生の児童8人が、学校に侵入した暴漢の手によって幼い命を奪われ、13人の児童が重軽傷を負った。
そして2人の教師が重傷を負った。
事件の惨状を目にした児童がPTSDを患うなど、事件の影響は計り知れないものだった。

ぼくは事件の4年後に当校に赴任したが、学校は「事件を中心に」回っていた。
授業も、学校行事も、登下校も休み時間も、すべてが「事件で子供の命を失った学校の責任」を背負いながら展開していた。
ぼくたち教師は、毎日の登下校は子供たちを送り迎えしたし、休み時間は学校中を巡視した。
授業では算数や国語の教科教育よりも、安全教育を重視して推進し、国内で初めて「安全科」を設置した(ぼくはその初代の安全科チーフとして研究や実践を行った)。
そして年間、5回の不審者対応訓練をした。

まさに、「働き方」など言えない状況だった。

今思えば、ぼくたち教師の心には、常に同じ思いが潜在していた。

それは、自分たちは「子供の命を守ることができなかった学校、教師」であるということだ。
その、払拭しようのない罪悪感とコンプレックスが、日々の職務のどの場面でも顔を出していた気がする。

忘れられない場面がある。

ぼくが当校に赴任して、初めての不審者対応訓練のときだった。
異様な緊張感に包まれるなかでの事前ミーティングの最中に、1人の教師が涙を流し始めた。
すると同僚がすぐにその教師を教室の外に連れ出した。
連れ出された教師は、訓練になると事件のことを思い出し、そのような状況になることがあるということだった。
その教師は、事件で暴漢が教室に侵入し、まさに目の前で子供たちが被害に遭う場面を見ている。
これは明らかなPTSDと言えるだろう。
しかしその教師は病院に行きもしていない。
だからPTSDという診断はされないまま、日々を過ごした。
そこには、命を失った子供がいるのに教師である自分がケアされるような立場ではない、という心情が強く働いていた。

大川小学校の悲劇で、教職員で唯一生き残った教師Aは、2011年4月9日、震災からおよそ1ヶ月後に開かれた第1回遺族説明会に姿を見せた。

20分間にわたって震災時の自身の動向を語ったが、その後はPTSDによる公務災害で休職し、2度と遺族の前には姿を見せていない。

説明会では、教師Aは冒頭でこう言ったそうだ。

「すみません、助けられなくて、本当に申し訳ありませんでした」

(河北新報https://kahoku.news/articles/20180418kho000000029000c.html)

遺族ではないものが、この教師Aの動向に疑いを持ったり、責めたりする必要などまったくない。

今生きる子供たちや学校、そして教師の教訓のために、教師Aや当時の大川小学校の教師の動きについて振り返っていく。

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