「まとめ③ 教師と福祉」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.95

教師のソーシャルワーキングについて

もう少し、「教師の働き方」について考えてみよう。

公教育に資する教師という職業は、「公務員」(公立学校の場合)だ。
したがって、理念としては自らの利益よりも公の利益のために自身を犠牲にする精神が尊ばれてきた。
それが教師を「聖職者」と言わしめてきた所以だろう。

だから昔の教師は、自身を着飾るよりも子供のために奔走した。

そのような教師の姿は、学校の働き方改革のもとで消えつつある。

しかし、そこには一種の「すり替え」が起きている

公務員であるという自覚を持っている教師が、いつしか文部科学省、学校、保護者、そして子供たちに支配されているような構図が見え隠れする。
それは、たとえば文部科学省が2021年3月に、教師の魅力を多くの人に伝え、次世代の教員に夢を与えようとする趣旨で始めた「#教師のバトン」プロジェクトにその例をみる。

投稿にあたり、所属長の許可等は必要なしというお墨付きがあったことも手伝い、現場教師はありったけの声でつぶやいた。

その声は「教師の魅力」ではなく、多くの悲痛な声が寄せられたのだった。

教師という職業を教師自らが「ブラック」と語る姿は、世間の教師像を変容させた。
そして世間は、「教師とは大変だ」「病気で辞める人が多い」「激務の割に薄給」「教育者ではなくソーシャルワーカーだ」という印象を与え、なおさら「憧れ」を失っている。

しかし、たとえば教師がソーシャルワーカーとしての要素を持っているとして、それはマイナスなのかということについて考えてみよう。

ベストセラーになった「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ブレイディみかこ)にこんなシーンが紹介されている。

筆者(ブレイディみかこ)の息子はイギリスの労働階級エリアの「底辺中学校」に通っている。
ここに通うことになったきっかけの場面もとても興味深かったが、その「底辺校」であるが故の多様な状況がある。

その一つが「スクール福祉」だ。

このエリアの中学校、あるいは現在のイギリスの保守党政権は大規模な緊縮財政を実施し、その影響が貧困層を直撃し、いわゆる多くの「子供の貧困」を生み出している状況だ。

だから「底辺校」の子供たちは成長に合わせて制服を買うことができず、破れた制服を着たりしている。
そこで筆者は、破れた制服を回収し、修繕して再配布するボランティアを買って出た。

その底辺校の制服修繕ボランティアの学校側の担当教師である”ミセス・パープル”は、こんな話を筆者にした。

「緊縮が始まってからずっとそう。貧困地域にある学校の教師はみんな言ってる。私たちの賃金は凍結されているのに、こっちがポケットから出すお金は増える一方だねって」

「昨日の夕食は食パン1枚だったって話している子の言葉を聞いちゃったらどうする?
朝から腹痛を訴えている子のお腹がぐうぐう鳴っていたらどうする?
昼食を買うお金がなくて、ランチタイムになったらひとりで校庭の隅に座っている子の存在に気づいたらどうする?
公営住宅地の中学に勤める教師たちは、週に最低でも10ポンドはそういう子たちに何か食べさせるために使っていると思う。
学校全体の学力を上げたり、公立校ランキングで順位を上げたりするのも大事なことだけど、勉強やクラブ活動どころじゃない子たちもいるのよ。
まずご飯を食べさせないと、それ以外のことなんてできるわけがない」

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ブレイディみかこ)p.105

これは、イギリスの緊縮財政が教師をソーシャルワーカーにしている現状だが、日本でも同じようなことが起きていくし、もうすでに起きている。

だが、このような子供を放っておけない人が、教師をしているということだ。
自身の給与は上がることはなく、裕福とは言えないが、身銭を切って子供の貧困から救おうとする。
そして、こんな教師の姿はリスペクトの対象となる。

呟く(ツイートする)のであれば、自身の身を嘆くのではなく、子供の現状に気づき、それが改善されることを願って呟くことが大切ではないだろうか。

ここから、「どのような教師になるのか」、あるいは「教師は何をするべきなのか」について考えていきたい。

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