「カリキュラム・イノベーション⑤ 〜”マイ・カリキュラム”という考え方〜」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.92
カリキュラムは誰のためにあるのか
ぼくが考えるカリキュラムの世界観の矮小化の要因は、「学習指導要領」にあるということだ。
ナショナル・カリキュラムである学習指導要領は、カリキュラムを「公」のものにしてきてしまったという感が否めない。
だから現場教師は、学習指導要領の変遷に伴って矢のように降ってくる変革事項の対応に追われ、カリキュラム・デベロッパーとしての力が発揮されてこなかった、あるいはその力を持つことができなくなってここまできた。
そのことは、コロナ禍における学校教育の混乱が物語っている。
2020年3月から続いた学校休業要請で、「時間割」と「進度」が大きく崩れた。
それを取り戻すために、学校現場は休みを返上して授業時数を確保しようとした。
このような非常事態は、世界中で発生したわけだし、過去における教育研究者が経験したことのない事態だったわけだ。
だから、これまでに学校教育がカリキュラム・デザインのベースとしてきたscope(範囲、領域)やsequence(配列)は、その形やあり方が変容して当然だったはずだ。
その変容に取り組むことができなかったことが、日本の学校現場の実力を示した。
しかし、学校はそれを「元に戻そう」とし、また、元に戻る日を待ち続けている。
このあたりについては、この「教師はなぜ・・・」シリーズが終了した後(キリのいいところでNo.100を考えているが)、「コロナとその先の教育(仮題)」で取り組んでいこうと思う。
ここで重要なのは、カリキュラムは「誰のためのものであるのか」ということだ。
それは学習者(子供たち)のためのものであるはずだ。
今次改訂の学習指導要領は、「社会の急速な変化」や「先の読めない時代」が要求しているものに安易に応えようとした結果、その量は非現実的に増え、代わりに「深さ」を失った。
“マイ・カリキュラム”の提案
ぼくは大学の「カリキュラム論」の授業で、第1回目に学生に聞く。
「カリキュラムとはなんですか」
すると多くの学生は「学習指導要領の英語」と答える。
では、「学習指導要領とはなんですか」と聞くと、
「学校間や地域間で、学ぶ内容や量に差が出ないようにするためのもの」
という回答が多く出される。
間違ってはいないが、これが日本の教育の実態だろう。
そこで学生にこんなことをさせる。
ノートの一番上に、「将来の自分の夢や理想像」を書く。
例えば「プロ野球選手」でもいいし「ユーチューバー」でもいい。
もちろん「教師」や「起業家」でもいい。
あるいは「世の中の役に立てる人」でもいいだろう。
そして次に、ノートの一番下に、「一番上に書いた夢や将来像に対する今の自分の姿」を書きましょう、という。
「大学の野球部のレギュラーの私」「模試で偏差値が40の私」「引っ込み思案でコミュニケーションが苦手な私」「教師になりたくてたまらない私」「将来に迷ってばかりの私」
そして、「ノートの中の空白の部分に、一番下にある現在の自分から、一番上に書いた夢へ向かっていく過程で必要なもの、ことを書きましょう」という。
しばらく時間を与え、完成をまつ。
完成したら言う。
「それがカリキュラムというものです」
あるいはそれを、“マイ・カリキュラム”という。
これはいわゆる「経験主義」的カリキュラムであり、それだけでは学校教育は成り立たない。
だが、学び手は、自分自身の将来像を思い描きながら、”マイ・カリキュラム”を作り、学ぶ姿が必要だ。
その姿をコーディネートするのが教師ではないだろうか。
そしてここでいう”マイ・カリキュラム”は、学校の、あるいは学級の”マイ・カリキュラム”にも応用される。
学校が休業した。
教科書の内容が遅れている。
そこで休暇を返上して「詰め込み」を行うのではなく、逆境を活用して”マイ・カリキュラム”を作成すればいい。
「横断」「融合」「相関」「広域」「コア」・・・。
これまでの知見を総動員して、柔軟で深みのある”マイ・カリキュラム”を作り、すぐさま実践していけばいいと思う。
「そんなことできるはずがない。どうすればいいんだ」
という声が聞こえてきそうだが、それを思いつかない、実践できない、提案できないのは、日本の教育が1998年からの24年間、あることに真剣に取り組んでこなかったからだ。
それは「総合的な学習の時間」(探究的な学習の時間)だ。
ここには、テーマ別学習、問題解決型学習、PBL(Project Based Leaning)・・・。
現代における教育の世界の潮流が全て詰まっている宝のような学習の時間だ。
しかし日本の教育界では、「何をすればいいのかわからない」という現場の声から、地域学習一辺倒になり、挙句は英語の時間に当てたりと、散々な状況がこれまで続いてきた。
なぜ「総合的な学習の時間」に柔軟に、研究的に、探究的に取り組んでくることができなかったのか。
それは、結局のところ、今回の論考のはじめに戻る。
カリキュラムが教師にとって、ナショナル・カリキュラム以外の何者にもなり得てこなかったということだ。
ここが勝負だろう。
コロナ禍において、「元の教育」を取り戻そうとするのか。
逆境をバネに「新たな教育」を生み出すのか。
カリキュラム・イノベーションは教師の、教師としての考え方、生き方、向き合い方のイノベーションから始まる。