「学校・教師のイノベーションへのいくつかの提言⑨ 〜今の「日本型学校教育」は幸せに結びつくのか〜」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.86

前回No.85では、最後に、

一人ひとりが「幸せ」を感じながら生きるための「学校」とはどのようなものだろう。
それが、「これからの学校の目的」になっていくのかも知れない。

と述べた。

今回はまず、一人ひとりの子供の幸せということと「日本型学校教育」ということについて、関連させながら考えてみよう。

「令和の日本型学校教育」とは

2021年1月、中教審答申「令和の日本型学校教育」の構築を目指して ~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~」が出された。

ここではまず、「令和の日本型学校教育」とは何を指すのか、ということについて検証してみる必要がある。

近代の学校制度は同質性を重視してきた。
それは、戦後の教育の民主化を進める上で当然で致し方のない方向性だったと言えるだろう。
どのような時代でも、一方向のポリティクスにとって異端は面倒なだけだ。
列強各国の政権もそうだし、クーデターでもそれは顕著に現れる。
日本は戦後、一つの国家を独立し、成長させる上で、「同質性」は必要な方策だった。
だが不幸なのは、それは現在でもあまり変わっていないことだ。

学習指導要領は、みんな同じように、同じことを、同じ程度できるようになるカリキュラムであり続けている。
そして学校教育は、それがスタンダードであると勘違いしたまま、根付いてしまってここまできた。
日本の学校教育が、カリキュラム解釈が未熟なままここまできてしまったことが、一つの不幸であると言えるだろう。

これについてはぼくが研究して論文にしたが、カリキュラム・ポリティクスとマイ・カリキュラムの概念解釈が重要だ。
これも学校・教師のイノベーションにとって重要な課題なので、次回にでも述べることにしよう。

では、「令和の」教育とは何なのだろうか。
同質性の教育から抜け出し、個々が幸せを希求できる教育になっていくのだろうか。
答申の中の「令和の日本型学校教育」の概念構想を整理すると、以下のようになる。

明治から続く我が国の学校教育の蓄積である「日本型学校教育」の良さを受け継ぎながら更に発展させ,学校における働き方改革とGIGA スクール構想を強力に推進しながら,新学習指導要領を着実に実施する。

従来の社会構造の中で行われてきた「正解主義」や「同調圧力」への偏りか
ら脱却し,本来の日本型学校教育の持つ,授業において子供たちの思考を深める「発問」を重視してきたことや,子供一人一人の多様性と向き合いながら一つのチーム(目標を共有し活動を共に行う集団)としての学びに高めていく,という強みを最大限に生かしていく。

ツールとしての ICT を基盤としつつ,日本型学校教育を発展させ,2020 年代を通じて実現を目指す学校教育を「令和の日本型学校教育」と名付け,まずその姿を以下のとおり描く

とある。
印象的には、GIGAスクール構想を基盤とすることが全面に押し出されているようだ。
GIGAスクール構想は、個々の子供たちのグローバルな人生と学びのイノベーションの入り口という意味でいいかと思うが、その方法が「1人1台タブレット」に終始している。

このブログのNo.83を読んでもらえれば感じられると思うが、それをプログラミングや、あるいは「学び方」へとつなげていく発想や構想が、日本の教育ではなし得ていない。
学習アプリを使って、これまでの学習方法の代用を「見つけた」と言って満足している段階が続いている。

日本のICTは世界の潮流の中でとても遅れている。
カンボジアは発展途上国だが、iPhoneの最新型が出てもぼくが購入することを躊躇していると、カンボジアの人はすでにそれを手に入れて使っている。
安価で容易に、多様な方法で手に入れることができるからだ。

また、ぼくの授業をとっている中国の留学生たちのプレゼン能力は圧倒的だ。
そもそも、プレゼンのソフト(PowerPointなどの)の使いこなし方が半端ではない。
そして、日本では見たこともない記録媒体を持っていたりする。

日本のGIGAスクール構想についても、世界の潮流に目を向けて学ばなければ、またメリーゴーランドを降りることができないままでいることになる。

また、答申には

従来の社会構造の中で行われてきた「正解主義」や「同調圧力」への偏りから脱却し

とある。
どうすれば脱脚できるのか、考え、日本の教育の中で教師たちが共有することが重要だ。
しかし、「正解主義」や「同調圧力」が学校にどのような形で存在するのか、研究、検証されなければならない。

たとえば、教師の研修会などでよく話題になることの一つに、
「先に課題や学習過程を終えた子供と、まだ終えていない子供のタイムラグをどうするのか」
ということがある。
例を挙げるとすると、図工の授業などでよく見られる。
作品づくりや絵画では、早く仕上げる子供とそうではない子供が顕著に、そして必ず現れる。

だが、学校の中でこれらの「違い」にどのように対応しているか考えてみると、その現実がよくわかる。

図工の授業で、早く終えた子供はその授業時間を終え、自身が選択した課題や休憩、遊びなどに自らの判断で行動することができるだろうか。
できない。
必ず、授業が終わるまであくびを堪えながら待つことになる。
あるいは教師から、「もう一つ作ってごらん」と言われ、意味のないチャレンジで時間調整をさせられる。

ここでわかってくることは、「教育制度」や「慣例」を打ち破らない限り、個々の幸せに結びつく学校教育はなしえないのではないかということだ。

それは「カリキュラム」のあり方であり、「学級・学年」方式であり、「教師と子供」の構図のイノベーションを意味する。

これからの学校の目的は、「個々の幸せ」に結びつく学校教育だ。
それは個人主義ということではない。

とても難解で重要な課題だ。
もう少し考えていこう。

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