「学校・教師のイノベーションへのいくつかの提言⑦〜学校の目的は何か〜」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.84
前回No.83では、スガタ・ミトラの「クラウド上に学校を」について紹介した。
スガタはスラムの子供たちにコンピューターを与えると、数時間後には自ら学び、習得することを実証し、「自己学習環境」(SOLE)のシステムを提案した。
この実証による子供たちの姿には驚かされるが、何よりもスガタが示唆した重要な視点は、
“School as we know them are obsolete”
(学校は時代遅れだ)
という刺激的な文言ではないだろうか。
これは、日本語訳を見ると「学校」というものが時代遅れだと言っているように感じられるが、そうではない。
“we know them”
が示しているのは、ぼくたちがこれまで「学校」として当然だと思っていた姿のことだ。
これまでの「学校」の姿はすでに遅れている。
だから「学校」をイノベーションしよう、ということだろう。
また、スガタがいうところの「学校」が意味するものは、子供がいて、教師がいて、校舎や運動場がある、という構造上の「学校」(structually)を示しているのではなく、これまで脈々と受け継がれ、当然のこととして進められてきた「内容(教育内容や方法、教育制度も含めて)」(contents)のことを示しているのだろう。
では、イノベーションするべき「学校」とはなんなのか。
6. 「学校」の目的を新たに問うところから始めよう
この原稿を書いているのは2021年12月31日。
この日は、いつもの大晦日ではない。
「コロナ禍」と称される状況が丸2年間続いていることを示している。
2年前の2019年12月31日に、台湾当局が新型肺炎の実態を掴み、WHOにメールを送り、世界への警告の必要性を示唆した(結果的にWHOが台湾のこの提言を無視したことは残念なことだった)。
コロナ禍と教育については、本シリーズ「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」の続編として、新しいシリーズを立てて論考していくつもりだ。
いずれにしてもぼくたちは、当時はコロナ禍がこんなにも長く続くことは知らなかったし、学校教育に多大なる影響を及ぼすとは(今後もその影響は出てくるだろう)思いもしなかった。
その結果、学校行事や学校のカリキュラム、教師の仕事について、その捉え方や考え方を変えていかなければならなくなった。
しかし、学校や教師というものは、何かを変えたり、新しいものに取り組むことについては驚くほど消極的だ。
学校教育は誰もが、教師も受けてきた道だから、そこにあったものを辿る。
だからその経験になかったもの、新たな経験は拒絶しようとしてしまう。
だが、拒絶もできないまま、もはや経験のなかった世界に突入してしまった。
もう、これまでの「学校」ではないのだ。
長期にわたる学校休業で、ぼくたちは「学校とは何か」を新たに問い直すことになった。
なぜなら、授業はオンラインでも、オンデマンドでもできることがわかった。
「教室での学び合いに価値がある」というロジックは理解はできるが、そこにどのようなエビデンスが示せるだろう。
学校行事はこれまでと同じでなくともよいことがわかった。
「行事が子供を成長させる」というロジックも理解できるし、ぼく自身もなんとなくそのように感じてきた。
しかし、このことを実証することはとても困難だ。
よく、作文を例に出して、この行事が子供をこのように成長させた、という報告があるが、当然それはエビデンスとは言い難い。
学校行事の精選と削減、縮小が子供の成長や学校教育にどのような影響を与えているのか、という命題は、ぼくが次に取り組もうとしている研究テーマだ。
また、長期の学校休業で不登校が増えたという報告がある。
もちろん、不登校はずっと増えているからコロナ禍が理由かどうかは検証の必要があるが、現場の教師に聞いても「コロナで不登校が増えたという実感がある」と言っていた。
それが目の前で、実際に起きているのだろう。
子供たちにとって、「学校」とは何なのかを問い直すひとつの理由になる現象だ。
あるいはコロナ禍でいじめが減少した。
学校がなければいじめがないという、とても皮肉なロジックが成立する。
では、「学校」は何のためにあるのか。
「学校」の価値は何か。
それを改めて問い直さなければならない。
次回、2022年の新しい年の幕開けに「これからの学校の目的は何か」を問おう。