「学校・教師のイノベーションへのいくつかの提言⑤〜教育における『科学』と『勇気』〜」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.82

ここまで、本シリーズのまとめの段階として「学校・教師のイノベーションへのいくつかの提言」として、ハイブリッド型授業や教師の姿について論考してきた。

前回No.81では、研究会の仲間とオンラインで交流しながら、「地に足がついた教師」を実感したことについて書いた。
だが、実はもうひとつ感じていたことがある。

4.教育をイノベーションする「科学」と「勇気」を

その交流の中で交わされていた言葉や学校の状況、教師が抱える課題は、教師の考え方や取り組みは、少なくともぼくが学校教育現場にいた20年ほど前から「何も変わっていない」ということだ。

「授業力」や「学級経営力」、あるいは子供の学力や将来性、管理職や同僚性の調和など、学校・教師は目に見えないものに取り組み続けていることがわかる。

授業力があるかないかという議論は大切な職能向上のひとつだが、それは主観的であり、科学的ではないところで語られている。
至る所で「授業力アップ」というテーマで研修会が開かれ、あるいはその類の書籍は数多存在する。
なぜそれほど多くの場があるのかというと、多くの教師が「授業力を高めたい」という需要量とともに、科学的ではなく、人ぞれぞれいうことが違うし成功例も失敗例も個々に存在するから、いくらでも(誰にでも)語れるという供給量がマッチしているからだ。

それが教育というものが持つ特性だと言えるだろう。
エビデンスのないところで語られることが多い。
そして、それで通用してきたから今から何かを大きく変えよう(イノベーション)とすることが困難であることも、教育の特性だ。

例えば「学校・教師のリアル」な感覚について、興味深い話があった。

ある教師が、子供の学力の将来性について、こんな発言をした。

「学力の将来性は、子供の時点で見えている。いくら言っても勉強しない子はしないし、できない子はできない。そのような子供は、もう勉強しないだろう。だから、別のことを頑張ればいい」

これは、ぼくも教師時代に感じていたことだし、実は多くの教師が感じていることではないだろうか。
学ぶことに関心が持てない子供は確かにいるし、「勉強ができない」子供は存在する。
そして、その子供が飛躍的に学力を向上させることは、とても困難だと教師は感じている。

あるいはこのこと(子供の学力)は、環境(家庭や地域、周囲の)が起因しているのではないか、という潜在的な思い込みもある。

だが、それは科学的な根拠を持たない、とても感覚的なものだ。

教育を科学的に分析し、何が子供にとっていいのか、どうすれば教育が社会に効果的に機能するのか、世界では多くの研究が展開されている。

OECDのアンドレアス・シュライヒャーは、「いくつかの教育の神話」を科学的なエビデンスで崩してみせた。
そのいくつかの神話とは、以下のようなものだ。

1.”貧しい子供は成績が悪い。これは運命なのか”
2.”移民は学校システムのパフォーマンスを低下させるのか”
3.”より多くのお金を使えば教育は成功するのか”
4.”クラス規模が小さいほど成績が良くなるのか”
5.”学習時間が多いほど成績が良くなるのか”
6.”持って生まれた才能で教育の成功が決まるのか”
7.”文化的背景は教育に大きな影響を及ぼすのか”
8.”能力別クラスで成績が良くなるのか”
9.”成績の良い生徒が将来教員になるべきか”

教育のワールドクラス――21世紀の学校システムをつくる(明石書店)

これらの「神話」は、誰もが感じていたものであり、今でも感覚的に持っているものがあるのではないだろうか。
先の教師の話、「勉強できない子供は、勉強ができるようにはならない」という限界点の見極めも、これらの「神話」と類似する。
だが、これらの「神話」は科学的に否定されている

このような「神話」について再考するうちに、いくつかの考えるべき疑問が生じる。

なぜ、学年があるのか。
(発達段階があり、その段階の応じた教育が必要で効果的であるという説明)
なぜ、学級があるのか。
(一つの小集団で社会性を学ぶという説明)
なぜ、学習指導要領があるのか。
(地域、学校間で教育格差が生まれないようにするためのスタンダードという説明)

これらの説明に、これまで疑問が持たれることはなかった。

疑問を抱いてイノベーションに取り組むような風潮が日本の教育界にはなかった。
それは、日本の教育がいまだに、そしてあまりにもポリティカルに依存して(支配されて)いるからだ。

先日、小学校の高学年における「教科担任制」を導入するため、教職員の定数を950人増員するという報道があった。
驚くのは950人増員という数の少なさだ。
全国に学校がいくつあり、そこで発生する高学年の教科担任がどれほど生じるかということに対して、どのような計算をしてのことだろう。
教育にお金をかけようとしない国の姿勢があからさまに表面化した決定だった。
結局、政策は伝達するがあとは校内でうまく回せということだ。

だったら、最初から学校に教育政策を任せればいいのにと思う。
学校独自の行政を展開し、制作を立て、カリキュラムを作る。
そのように学校や教師を信じてまかせないから、教師はカリキュラムデベロッパーになれないのだ。
ぼくは論文に書いたが、日本においてカリキュラム・マネジメントが学校や教師のもとで展開されないという問題、課題は1970年代から1900年代後半にかけて、各方面で論究されてきた(「カリキュラム・マネジメントの今日的課題と成立要件の考察 −M. SkilbekのSBCD理論を基点に」−Consideration of today’s issues and requirements for curriculum management
– Based on SBCD theory by M. Skilbek - 松井、2021)。

学校や教育を変えよう、イノベーションしようという「勇気」は、あまりにもポリティカルな日本の学校教育によって骨抜きになっている。

次回、世界の教育の中で「勇気ある」イノベーションに、エビデンスを持って科学的に取り組んでいる例について紹介したい。


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