「学校・教師のイノベーションへのいくつかの提言② 〜“一斉”という意味への着眼〜」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.79

前回No.78では、「1.授業を変える 〜発言力の育成はグローバルな生き方への第一歩〜」について書いた。
今回も「授業のイノベーション」をテーマに考えてみよう。

2.一斉授業の慣習への“とらわれ”を捨てよう

新型コロナウイルスの席捲は、少なくとも教育の世界においては日本の「教育レジリエンス」の脆弱性を明らかにした。

2020年3月の一斉休校以降、GIGAスクール構想による1人1台端末が早期化されたにも関わらず、オンライン授業への移行が現場レベルで容易には進まなかった。

その要因の一つとして、学校教師のICTリテラシーへの課題とともに、教室での一斉授業がベースであるという慣習への“とらわれ”があったのではないだろうか。

教師はこれまで、教室での一斉授業という形式上の慣習に疑いを持つことはなかった。
もちろん、グループ学習やアクティブラーニングなど、様々な工夫は試みられてきたが、それらはすべて、教室での一斉授業から派生した即時的なものだったと言えるだろう。

その“とらわれ”があったから、一斉休校から一気にオンライン授業に移行することができず、当面は「課題」としてプリント学習を行ったところが多かった。

それは、いずれ一斉授業に「戻る」べきだという仮定が大きな前提として教師の頭の中にあり続けたからだろう。

これが、学校や教師のイノベーションが思いのほか困難な理由だ。
これまで当たり前だったことを変えるためには、幾つもの壁があるのが学校というところだ。

たとえば、教育実習の振り返りを学生としている時、とても興味深い話を聞いた。

その学生が実習に行っていた小学校では、ICTを活用することに対して、ICT活用派と「反対派」で、教師が2分されていたそうだ。

ぼくはてっきり、年配の教師が反対しているのだろうと思った。
ぼくが教師をしている頃も、プリント類の「手書き派」がいて、その先生はパソコンが扱えなかった。
扱うことができずに努力するのではなく、「あんなものなくても教師はできる」というのがその主張であり、「手書き」には温かみがある、という持論がプライドだったようだ。

その構図とよく似ている気がしたので、学生に

「ICT反対派って、ベテランの先生たち?」

と聞いた。
すると意外なことに、それは若い教師だった。

そのICT反対派の教師の持論は何かと学生に聞くと、

「ICTなんかより、算数や国語の教科教育に力を入れるべきだ」

という主張だったそうだ。

やはり、かつての「手書き派」と構図は似ている。
だが、このICT反対派の若い教師の考えは、現在の日本の学校教育の弱点を表している。

それは、ICTは活用されるものではなく、一つの「課題教育」のようになっているということだ。
例えばそれは、算数や国語などの教科教育ではなく、平和教育や情報教育などのひとつのような感覚を持っている。
だから推進派と反対派のような、2分された主張が生じるのだろう。

これは、学校教育現場にあまりにも多くの「変革」が落とし込まれたため、現場の教師がうまくインプットできていない様相を表している。

それが、現在の学校教育の弱点として表面化しているのだろう。

今こそ一斉授業の枠組みから柔軟に授業を開放し、ICTを活用してハイブリッド(対面と遠隔)に授業を展開することが必要だ。

「一斉」の中には、子どもたちが教室に全員いる、ことが前提となっている。
だから、不登校の児童生徒は教室にいない「異質」な存在となっている。

だが、コロナ禍の中で不登校の児童生徒が、学校に行かなくても同じように学ぶことができる方法に、ぼくたちは気づいたのではないか。

「個」を重視し、個別最適な学習は一斉授業では叶えられない。

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