「学校・教師のイノベーションへのいくつかの提言① 〜発言力への着目〜」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.78
このシリーズ「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」は、今、ぼくの目の前にいる学生や、教師になった元ゼミ生たちを見ながら「教師という職業の価値」について再考しつつ、その憧れを取り戻す探究の旅だったと言えるだろう。
その探究の旅を続けながら、少しずつ見えてきたものもある。
このシリーズのまとめの段階に入っていこう。
教師への憧れを取り戻すための「学校・教師のイノベーション」に向けた、いくつかの提言をしたいと思う。
1.授業を変える 〜発言力の育成はグローバルな生き方への第一歩〜
今日は大学で、「教科指導法」の授業の年内最終日だった。
この授業では、学生が指導案を書き、教材教具を準備して模擬授業をする。
ぼくの授業では、学生たちが模擬授業を相互評価し、ディスカッションを展開する。
やはり学生はディスカッションというものに大変不慣れで、その力を大学で育成することはもはや困難だと実感する。
ディスカッション力や発言力は、小学校段階から学校で取り組んでいくべきだろう。
どのような教科、領域の授業でも「発言」することを授業のコアに持ってくる。
これまでのように、手を挙げることにこだわって発言させる必要なんてない。
ぼくも、授業で学生に問いを投げかける。
誰でもいいから答えてみようと。
そうすると、だれも発言しない。
仕方ないから、何か言いたそうな顔をしている学生を指名する。
すると、どうして発言しなかったのかと言いたくなるほど、しっかりした回答が返ってきたりする。
なぜ、口を開かなかったのか。
それは、「自信がない」からだ。
その自信のなさは、学力や国民性などではなく、「機会」のなさが生み出してきたものではないだろうか。
子供たちが発言しやすいように、教師はさまざまな工夫をしてきた。
発言が不得手な子供も発言できるようにと、グループで話し合わせる活動も多く見られる。
だがそれは、発言が不得手な子供に対してなんの解決にもなっていない。
場を紛らわすことができているだけだ。
「自信のなさ」は、「違うことへの恐怖」が背景にある。
とくに、算数や数学の答えや知識を確認する質問に対しては、どうという問題ではない。
それよりも、個々の考えや心情に関わること。
要するに、個人のフィロソフィーを背景とする発言力が圧倒的に弱い。
これは、本シリーズでも触れた、日本の教育における「同調圧力」が生み出してきた大きな弊害と言える。
海外へ行くと、大学生や高校生の発言力(表現力)に感嘆する。
自分の考えをはっきりと表現し、賛同も批判も受け入れ、さらに議論が展開し、深まっていく。
そこには「個」があり、「協働」がある。
今、日本の教育は表面的な言葉だけが踊っているのではないだろうか。
「主体的」「対話的」「協働的」な学びになっているか。
その最たる形がディスカッションの成立だ。
仲良し学級を作ろうとするのではなく、ディスカッションが成立する学級を作ろう。
ディスカッションをコアにした授業を展開しよう。
いつまでも、黒板に字ばかり書いていては、子供たちはグルーバルな意味で幸せになれない。