「学校教育のいくつかのレビュー③〜学級通信のトランジション〜」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.72
日本の教師の「多忙感」については、ブログの本シリーズの中でもTALIS2013〜2018を取り上げながら述べてきたところだ(No.19~22,33,48など)。
多忙感を解消する方法として、これまでの学校現場のスタンダードを見直してみよう。
学級通信と同調圧力
ぼくが新任教師になったとき、先輩教師に見せてもらったのが学級通信の製本版だった。
その先生は、1年間毎日学級通信を発行していることを誇りにしていた。
ぼくは心から素晴らしいことだと思い、真似をして毎日学級通信を出した。
そして、1年間で200号あまりの学級通信を、年度末に製本して子供たちに渡すことが年度末のルーティンとなっていた。
この取り組みは、当時の新任教師のぼくにとってはとても勉強になったし、学級経営や保護者とのコミュニケーションの一助になった。
そのかわり、子供が帰った後はずっとパソコンに向き合っていた。
学級通信の課題はいくつかある。
日本の教育現場では、これまで突出した実践や学級経営は良しとされず、横に並べるようにという「同調圧力」が働いていた。
それは今でも散見される現状だろう。
ぼくが学級通信を出していた学校から、別の市の学校に異動し、5年生を担任することになった。
隣接学級を担任するベテラン女性教師は、いつも管理職の悪口を言い、いつも教室から子供を叱る金切声が聞こえていた。
ぼくは張り切って、学級通信第1号を出した。
翌日、ベテラン女性教師から、
「学級通信出すの?これからも?」
ぼくは、「はい、出します。前の学校では年間200号出しました」
と言った。
するとその教師は言った。
「前の学校は、あれでしょ。田舎の小さな。ここは違うの。学級通信なんか出している暇なんてない。学級は揃えるべきだから、学級通信はやめて学年通信にしましょう」
明らかに、自身が学級通信を出すことが嫌だったことは分かったが、そのときは「合わせた」。
しかしこれも、今考えてみると変な話だ。
子供のためになることが、同調圧力で排除される。
学級通信の「形」を変える
だがこれは、20年以上前の話だ。
学級通信は、今でも有効な教育につながっていくのだろうか。
学級通信を出す目的を精査し、その必要性について考えることが大切で、「学級通信を出す」「出し続ける」ことが目的になっては、教師の「多忙感」を促進することになる。
例えば学級経営上の課題が発生したとき、担任教師が子供たちへ、そして保護者への手紙のように出すと、効果はあることがあるだろう。
しかし、ベテラン教師や大学の教員養成で、学級通信を「出し続けた」ことを価値にして語ると、学生は勘違いしてしまう。
したがって、学級通信を目的もはっきりさせず、「昔からあるいいもの」として今でも推奨するところが、学校教育がイノベーションから遠い所以だろう。
最近、大学の教員養成でも、学級通信を作らせる授業を見た。
それを教える教員は元小学校教員で、学級通信が自身の教育観を形成してきたのだろう。
だが、教員側が止まったまま教員養成をするから、古い指導をしてしまう。
学生は無垢だから、学級通信を出す、出し続ける教師は素晴らしいのだと覚えてしまう。
そして新任教師になり、それが足枷になる。
学級通信は「悪いもの」ではないが、もはや必要ではない。
出してもほとんど読まれていないだろう。
教師と同じように、親も忙しい。
出すなら保護者限定公開のHPに、画像を公開するなどが考えられる。
クラス限定や学年限定のFBやインスタグラムのグループを作ってもいいだろう。
保護者は、長く記述された文章を読むよりも、画像で我が子を探したり、気になる友達の姿を見る方が楽しいだろう。
このHPやFB等では文章は2行まで、など、必要最低限で有効な範疇を決めればいい。
学級通信や学年通信は、教師の自己満足の道具でしかなくなっていると認識すればいいだろう。
思い切って、簡便で効果的な方法にトランジションしていくことが肝要だ。