「いじめと教師の資質」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.51
教師にとって、いじめとの対峙とは
前回、No.50では「いじめ」と教師の力量について考察した。
名古屋市での中1いじめ自死事件について、第三者期間が「学校の過失」を指摘し、
「再発防止のため、教師が生徒の気持ちを洞察する能力を向上させることが必要」
という報告とともに、
「教育現場にさらなる努力を求めた」(H28年9月2日、産経)
という文言を紹介した。
学級の雰囲気や担任のスキンシップがいじめ、いじめによる自死の要因として認定されるのだから、これはかなり特殊な状況であったと考えた方がいいだろう。
しかしこの報告の深刻さは、教師の資質能力(のなさ)がいじめを誘発したのではないか、というロジックだ。
当たり前だが教師は人間だ。
万能ではない。
だが、まるで万能であるべきかのような期待(幻想)を、世間は教師に負わせてしまっている。
だが、教師にとっていじめとの対峙が、逃れようのない重要な職責の一つであることは間違いのないことだ。
いじめを「未然に防止する」こと
いじめを「発見する」こと
いじめを「解決する」こと
いじめから子供たちを「守る」こと
いじめについて「教育する」こと
これらのことと教師について、しばらく考えていく必要がありそうだ。
教師の「資質」の変遷
まず、これまで文科省などで繰り返し問われ、提言されてきた教師の「資質能力」とはどのようなものだったのか、整理して見ていこう。
教員に求められる資質能力に関しては、これまでに幾度も答申等で整理されてきた。
昭和62年の教育職員養成審議会答申「教員の資質能力の向上方策等について」では、教員の資質能力として、
<教育者としての使命感>
<人間の成長・発達についての深い理解>
<広く豊かな教養>
<これらを基盤とした実践的指導力>
が挙げられている。
その時代は、当時の中曽根康弘総理大臣の直属諮問機関として昭和59年に発足した、臨時教育審議会の最終答申(第4次)が出された年だ。
臨教審では8つの主要課題について審議が行われてきたが、その5つ目が、当時社会的な要求となりつつあった「教員の資質向上」だった。
平成9年の教育職員養成審議会答申では、「いつの時代も教員に求められる資質能力」として、昭和62年の答申を例に挙げながら、教員の資質能力とは
「『素質』とは区別され後天的に形成可能なもの」
であるとした。その上で「今後特に教員に求められる資質能力」として、
<地球的視野に立って行動するための資質能力>
<変化の時代を生きる社会人に求められる資質能力>
<教員の職務から必然的に求められる資質能力>
の3本の柱を掲げ、さらに細分化された資質能力を提示した。
だが一方でその答申には、教員は「多様な資質能力を有することが必要」としながらも、
「教員に求められる資質能力は、語る人によってその内容や強調される点が区々で」あり、「すべてを網羅的に掲げるのは不可能」であるという、消極的ともとれる文言がある。
さらには、「教員一人一人の資質能力は決して固定的なものではなく、変化し、成長が可能なもの」であるがゆえに、今後における教員の資質能力の在り方については
「画一的な教員像を求めることは避ける」
るとしている点は興味深い。
続く平成11年の教育職員養成審議会答申では、
<初任者の段階>
<中堅教員の段階>
<管理職の段階>
という、「各ライフステージに応じて求められる資質能力」を示した。
平成17年の中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」では、「教師に対する揺るぎない信頼」や「優れた教師の条件」という強い文言とともに、
<教職に対する強い情熱>
<教育の専門家としての確かな力量>
<総合的な人間力>
が必要であるとされた。
これらの答申における「教員の資質能力」観から見て取れるのは、時代や社会の要請に応じて、その資質能力や教師像を変容させようとしながら、揺れ動いている様子ではないだろうか。
今、ぼくの手元に、あるいじめ事件の調査報告書がある。
その報告書におけるいじめと教師、学校の関連や責任の所在などについて詳しく考察していくことは、いじめと、上に挙げた教師の資質との関連について考える上で重要な取り組みかもしれない。
次回以降で論考していこうと思う。