中国での日本人男児刺殺事件に寄せて
中国、深圳で母親と登校中の日本人男子児童が、何者かに危害を加えられた。
なんとか命は、との願いも叶うことなく、幼く尊い命は異国の地で理不尽に失われた。
その現場に共にいて、一部始終を見ながら我が子を失った母親の気持ちは察するに余りある。
心よりご冥福をお祈りします。
この事件の訃報は、奇しくも登下校見守り活動ボランティアに関する論文を書き終えようとするときに届いた。
登下校における子供の安全は、我が国において大きな課題だと言える。
この課題を私たちに突きつけ、気づかせたのは2004年11月17日に発生した、奈良小1女児殺害事件であった。
当時小学校1年性だった女児は、学校からの下校中に連れ去られ、命を奪われた。
この2000年前後は、刑法犯認知数が急増とも言える様相を示し、それは「学校」を舞台にした事件に象徴された。
1999年、京都市伏見区で発生した小学校2年生男児殺害事件。
2001年、児童8人が殺害された大阪教育大学附属池田小学校事件
2004年、奈良小1女児殺害事件
2005年、寝屋川市立小学校教師殺傷事件
これらの事件は「学校」、子供の安全は守ろうとしなければ失うものであるということを、私たちに知らしめた。
そして、登下校の見守り活動ボランティアが全国的に組織され、学校では教員による不審者対応訓練が実施されるようになり、安全マップをはじめとする安全教育が展開されるようになった。
しかし現在、それら学校安全における緊迫感と意欲、持続可能性は失われていっている。
まもなく我が国は、いやすでに「超」高齢化社会を迎え、人口の30%が65歳以上の高齢者となっている。
その高齢者に、子供の安全を託してきた登下校の安全活動は限界を迎えつつあり、その持続性が課題となっている。
安全教育は、現在の学校現場に実態からも、さほど推進されている様子はない(一部、意欲的に推進する学校はある)。
そのような中で、海外で、登校中の児童が暴漢に襲われて命を失った。
この問題の本質を、マスコミが発信するテーマによって見誤ってはならない。
反日感情、日中関係、責任の所在などの視点で関心は煽られる。
そして、「反日感情の強い中国人が無差別にその感情を発散させた」というストーリーでこの問題を起結してしまう。
反日感情については、ここで言及するのはやめておこう。
ただ、これを機に歴史を学び直すことを大学生には伝えている。
今回の事件で大切なのは、
「登校(下校)時に子どもが襲われる可能性が、今も昔(2004年)も変わらずにある」
「無差別に子供の命を奪おうとする悪人は、今も昔も変わらずに存在する」
という事実である。
地震と同じで、時間が経ったからその被害の可能性が低くなるのではない。
自然災害はどの時代にも変わらず存在し、いつかやってくる。
同様に、悪人はいつの時代も存在する。
しかし、私たちはその起こりうる危機に対して、過去の災禍を教訓にし、備えることはできる。
そのことによって、かつては失われていた命を守ることは可能なのである。
今回の中国での事件は、海外に限らず登下校の安全確保の必要性を、私たちに知らせてくれた。
「どうすればこどもたちのいのちは守れるのか」(拙著タイトル)という命題は、いまだに解決できていない「アポリア」である。
失われた命を教訓に、学校現場、地域、家庭で話し合われ、三者協働でその命題に向き合うことが望まれる。