学校における危機管理とは-1.「学校管理下」という壁
前回までは「大川小学校の悲劇」とタイトルし、2011年3月の東日本大震災に関連する大川小学校津波事故について論考してきた。
そこから重要な視点が示唆された。
それは、「学校管理下」という状況のことだ。
本シリーズでは、学校における危機管理に関する研究を進める過程を、ブログに掲載していく。
そこでまず、「学校管理下における危機対応に関する考察~石巻市立大川小学校の津波事故を事例に~」という論文を執筆していく。
その内容について、かいつまんでここで紹介していこうと思う。
学校における危機管理とは
これまでの学校危機管理は、「危機管理マニュアル」の作成を軸として進められてきた。
危機管理マニュアルは、事件や災害等の発生時に、児童生徒の安全を確保するために学校及び教職員がどのように行動するのかを示す指針であり、学校保健安全法第29条に基づき、各学校で作成することが義務付けられている。
各学校園において危機管理マニュアルを作成するという周知は、2001年6月に発生した大阪教育大学附属池田小学校児童殺傷事件に端を発する。
それまで安全だと信じられていた学校教育現場において、さらには教職員や児童がいる学校教育活動中に不審者の侵入を許し、多くの児童や教職員が被害に遭うという事件は、学校が安全な場所であるというひとつの「神話」の終焉を意味した。
そして事件が発生した翌年、2002年12月に、文部科学省は各学校における危機管理マニュアル作成の参考資料として「学校への不審者 侵入時の危機管理マニュアル」を作成した。
そして2004年11月に発生した奈良市小1女児連れ去り事件を大きな契機とし、2007年11月には登下校時の犯罪被害への対応を追記した「学校の危機 管理マニュアル~子どもを犯罪から守るために~」が作成された。
また、2011年3月の東日本大震災を契機として2012年3月に、「学校防災マニュアル(地震・津波災害)作成の手引き」が作成された。
このように、危機管理マニュアルの作成の流れを概観してわかるように、これらのマニュアルの手引きは事件や災害を契機として作成、改訂されてきた。
本研究では、これらの「契機」を「危機」と呼ぶことにする。
「危険 danger」が予想される悪い事態を意味するなら、「危機 crisis」は危険や不安を招く状態であると意味される。
そして、危機には国家危機や個人的危機など多様に存在するが、本研究ではそれを“学校危機“に特定する。
Jared Diamondは「危機と人類」(“Turning points for Nations in Crisis” 2020)のなかで、その原題に”Turning point”とあるように、危機を「転換点」と定義している。
またそこでJared Diamondは、英語の”crisis”はギリシア語の”Krisis”や動詞の”Keino”からきており、それらの意味は「分ける」「決める」「区別する」「転換点」などのいくつかの意味を示し、”crisis”は「正念場」であるとも取れると論じている。
そして危機を、「非常に長い間隔をあけて起こる、きわめて稀で劇的な大変動」と定義した。その定義に基づいて「学校危機」を捉えたとき、たとえば2011年の大川小学校津波事故が挙げられる。
そこで本論考では学校危機のひとつのモデルケースとして、大川小学校津波事故を取り上げることにする。
本研究で取り上げる大川小学校津波事故は、マスメディア等によって「学校管理下における史上最悪の事故」と称された。
「学校管理下」とは、端的にいうと授業や休み時間で学校にいるとき、遠足等の課外授業などを受けているときやその移動中、そして登下校の通学中ということになる。
一般的にはよく「行ってきます」から「ただいま」までが学校管理下であると表現される。
したがって学校管理下においては、児童生徒の安全を適切な形、方法で保証することが学校(や教師)には求められる。
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、14時46分に発生した地震に端を発している。
1995年1月の阪神淡路大震災は夜も明ける前の5時46分に発生し、2016年4月の熊本地震も21時26分の前震が発生し、本震は16日未明に発生しており、いずれも学校管理下における地震ではなかった。
しかし、東日本大震災が発生した14時46分は、小学校であれば下校準備中であったり、中学校では部活動を行なっていたりする時間だった。
したがって、地震発生後にどのように避難するかは、学校(教師)の判断に委ねられたと言っても過言ではない。
そして、本論考で取り上げる大川小学校津波事故は、その学校管理下において、学校の判断の遅れや誤りによって発生したという見方が強く、訴訟でも学校の過失が認定されたのである。
(次回へと続く)