大川小学校の悲劇 14(最終回)薄れゆく記憶、教訓の伝承
危険予知と危険回避
大川小学校の悲劇における最終判断の構成要素として、「場所」「地域性」「学校のリスクマネジメント」と「教師の特性」であると考え、論考してきた。
最終的には約50分間、教師と多くの子供たちは校庭にとどまり、「三角地帯」へと避難したときにはすでに三次避難の契機を逸し、学校管理下における戦後最悪の事故と称される結果になった。
しかしこれまで何度か述べてきたように、「安全は結果しか物語らない」。
だからこそ、「そのとき、もっとも適切な判断」ができることが大切になってくる。
そこで働く力が、危険を予知する力と危険を回避する力だ。
これは防犯でも防災でも同じだ。
防犯で例えてみよう。
小学生が塾の帰り、ひとりで歩いていたとする。
すると、前方に路上駐車の車が1台いた。
そのとき、小学生は「何か嫌な感じ」がした。
これが「危険予知」だ。
そしてその小学生は、自身が持った「嫌な感じ」にしたがい、Uターンして別のルートで帰宅することにした。
これが「危険回避」となる。
このような力は、学校での安全教育や家庭教育でつけていくことが可能だ。
では、災害ではどのようにその力は働くだろう。
学校活動のさなか、地震が発生したとする。
この地震は「現象」だから避けようがない。
しかし、この地震が発生した後は「災害」に移りゆく。
この「災害」は、学びによって減じることができる。
この学校が、海に近い学校だったとしよう。
地震が発生し、「津波が来るかもしれない」と感じる。
それが「危険予知」となる。
そして、避難行動をとる。
これが「危険回避」ということになる。
だがいずれにしても、この「危険予知」の力は先天的なものではない。
学習することによってつけられる。
それは、子供だけではなく、教師も同様だ。
防犯や防災学習に取り組んだ教師は、危険とはどのような状況で訪れ、どのようにすれば回避できるかを学ばせるために教材研究をする。
その教材研究は、教師のリスクマネジメントの能力やスキルを結果的に高めることになる。
したがって、安全教育に取り組まない学校は、教師の子供も、ともにその力が形成されていないことになる。
では何を学習するのか。
それは、伝承されてきた教訓を教材にすることが重要になる。
薄れゆく記憶と教訓の伝承
これまで、防犯や防災について考えてきた中で言えることは、事件や災害の記憶の強度と教訓の伝承の強度は、同様の推移を辿るということだ。
そこには相関関係はないが、同じようにその強度は薄れていく。
これを「風化」という。
矢守(1996)は、災害の記憶が長期的に「風化」していく過程を、阪神・淡路大震災に関する新聞報道量を指標として定量的に測定することを試みた。
その結果、報道量は指数関数的に減少することが見いだされた。
現に今年の3月。
東日本大震災から11年目を迎える前になり、報道機関の苦悩が報告された記事を見た。
経年的に震災に関わって報道してきた記者が、「今年は記事を減らす」ように上司から言われたという。
その理由は、「震災関連記事は読者を喜ばせない」ということだった。
確かに、少しずつ忘れていくこと、そして幸せな記事が増えることは望まれることではある。
しかし、忘却は閑却となり、次の災害へと結びついていくことは、歴史が何度も物語ってきたはずだ。
また矢守は、「風化」は単なる忘却ではなく、内容そのものが「文化」になっていく過程であると捉えた。
その意味では、「教訓の伝承」はひとつの文化の継承でもある。
ただ、ここで重要なのは「だれが」伝承するのか、ということだ。
ぼくは一昨年あたりから、「未体験教員による『語り継ぎ』のジレンマ」に関する研究を進めている。
この内容については、次のシリーズで紹介していこうと思っているが、この研究をする契機は二つある。
ひとつは、「当事者による語り」であり、もうひとつは「自分自身」がモデルになっている「語り継ぎのジレンマ」の存在だ。
「当事者による語り」は、ときには激しく、悲しみを湛え、聞くものの胸を揺さぶるほど圧倒的なものだ。
それだけに、「当事者」か、そうではないか、という壁も生じることがわかった。
「当事者」にしか語れないことは、当事者ではないものが「語り継ぐ」ことが困難になるという実態がある。
また、ヒロシマの語り部の存在が示すように、「当事者」による語りは永遠に継続されることが期待されない。
したがって、たとえば学校では事件や災害の「伝承」は、未体験教員が担う。
阪神・淡路大震災を体験していない教師が防災教育を担当したとき、「知らない自分がやってもいいのか」というジレンマを口にした。
この言葉は、ぼく自身の言葉でもあった。
大阪教育大学附属池田小学校で発生した児童殺傷事件は2001年に発生し、ぼくは2005年に当校に赴任した。
学校安全主任になって以降、ちょうど事件から10年という節目とも重なり、ぼくはまるで、事件の語り部かのようにマスコミに取り上げられた時期があった。
そのことは、「事件の場にいなかった」ぼくに大きなジレンマを生じさせていた。
その経験がこの研究に生かされている。
大川小学校の悲劇は、誰によって、どのように語り継がれていくだろう。
今現在、多様な「当事者」が語り部となってその教訓を繋いでいる。
教訓は、事件や事故、災害の「凄惨」を伝えるものではなく、次代の災害に生かされる内容であることが重要だ。
ぼくは今回、大川小学校の悲劇の、グラウンド・ゼロからは少し離れたところから「当事者」として生きる方と話すことができた。
この体験は、教訓の伝承における研究に大きな役割を果たすだろう。
ときに、考え込み、絞り出すように話してくれたその言葉の数々を、忘れることなく、教師になる学生たちに繋いでいこうと思う。
「大川小学校の悲劇」終