大川小学校の悲劇 13.「判断」を左右した学校のリスクマネジメント

津波という未知の災害が迫り、100人以上の子供たちを安全に避難させなければならないという緊迫した状況の中で、「そのとき、もっとも適切な判断」をするためには何が必要なのかを考えてきた。

大川小学校の悲劇では、校庭での判断に幾つかの「逡巡」が見られた。
そこで判断することができなかったこと、あるいは地域の住民の考えに依拠する瞬間があったことは、判断する根拠を持っていなかったことが理由として考えられる。

その根拠となるものが「学校のリスクマネジメント」だ。

危機管理マニュアルの「改訂」

学校には種々多様なリスクがあるが、ここではそのリスクを地震、津波災害に限定して考えてみよう。

ひとつは「危機管理マニュアル」だ。
危機管理マニュアルについては、本ブログの「大川小学校の悲劇 ⑧危機管理マニュアルと訓練の必要性とは」(2022年3月9日)に記述した。

大川小学校の悲劇における危機管理マニュアルの重要性は、「改訂」だと言える。
⑧でも書いたが、大川小学校の危機管理マニュアルは2007年に改訂され、このとき初めて、「津波」に関する事項が追加された。

そして、この改訂を進められたのが、今回ぼくが3.11にお会いして、たくさんのお話を伺うことができた千葉照彦先生の時だった。

これまでの歴史上、津波災害の被災がなかった学校で、ハザードマップにも浸水可能性が示されていない学校で、その危機管理マニュアルに「津波」を入れたことは、まさにリスクマネジメントだったといえる。
もしここに「津波」の文言さえなかったら、大川小学校津波事故に関連する訴訟などは大きく違っていたのではないだろうか。

しかし、そこに不備があったとすれば、三次避難場所を明確にしていなかったという点になるだろう。
2007年改訂の危機管理マニュアルでは、一次避難が「校庭」であり、次に避難する二次避難場所として「近隣の空き地・公園等」と示され、三次避難場所が具体的に想定されていなかった。

学校にとっての避難場所とは「児童が安全に集合できる場所」という捉え方をする。
そう考えるとこれは想像だが、2007年の改訂時の二次避難場所である「近隣の空き地・公園等」というものは、「万が一校庭が集合場所として使用できなくなった場合」の二次避難という意味があったのではないだろうか。
したがって、津波がきた場合の「高台へ」という発想でその場所を考えていなかったことが考えられる。

千葉先生と危機管理マニュアルについてお話しした時、つぶやくように、
「あの改訂の時、三次避難場所を決めておけば・・・」
と言われたことがとても痛切に聞こえた。
だがそうではない。
危機管理マニュアルで重要なのは、「作ること」ではなく「改訂すること」にある。
千葉先生の時に改訂された2007年から、千葉先生が当校を離れ、管理職も変わり、そして東日本大震災が発生するその時まで、大川小学校の危機管理マニュアルは改訂されていなかった。

なぜ、「改訂」することが大切なのか。
それは、リスクというものは社会や環境、時代や教訓によって変化するものだからだ。

そのたびに担当教員や管理職で議論し、改訂を試みることが重要だ。
すると色々なことに気がつく。
2007年の改訂で「津波」という文言が入った。
2008年、改訂に向けた担当者会議で津波からの避難場所が想定されていないことに気づく。
そこでいくつかの避難場所を想定することが始まる。
想定した避難場所が有効で実効性のあるものかどうか、実地検分をする。
そして、その可能性が示されたら、子供たちの避難訓練を実施する。

このように、「改訂」は文書の改訂にとどまらず、あらゆる可能性へと広がりを見せる。

最新の報告では、危機管理マニュアルの作成は全国の学校園の97%が実施している(公立学校は100%に近いが、なぜか私立学校の実施率が低い)。
しかし、定期的に「改訂」を実施している学校はどれくらいあるだろう。
そのことも、大川小学校の悲劇から学ばなければならないだろう。





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