大川小学校の悲劇 11.最終判断と「裏山」
大川小学校の悲劇において、大きな課題として挙げられるのは三次避難の「判断」と「場所」だ。
これまで多くの資料から大川小学校の悲劇について論考してきたが、実際にその場に立ち、千葉先生(前回紹介)のお話を聞きながらそこを見ると、情報やストーリーが「点」から「線」となっていくのを感じた。
三次避難の「判断」の構成要素
大川小学校における三次避難の「判断」は、結果的にはおよそ30分の逡巡があり、タイミングも選択した場所も、いずれもが最悪のものであったことは間違いのない事実だろう。
だがそれは後からだから言えることであり、安全は結果しか物語らない。
しかし、後から語ることが大切だ。
それが教訓となって後世に引き継がれていく。
大川小学校の悲劇における「判断」を構成した要素は、「場所」「地域性」「学校のリスクマネジメント」であると考えられる。
まず、「場所」は「判断」にどのような影響を及ぼしたのか。
ここでいう場所は、2ヶ所を示す。
ひとつは「裏山」であり、もう一つは「三角地帯」だ。
まず、「裏山」について考えてみよう。
マスコミ等の論調では、「なぜ裏山に避難しなかったのか」というものが多い。
ぼくが実際に大川小学校(震災遺構)に行き、千葉先生のお話を聞きながら、その目で校庭から「裏山」見て実感したことを率直に言うと、裏山への避難を教師が決断することは困難だったのではないか、あるいは逡巡したことは致し方なかったのではないかということだ。
その理由を述べよう。
「裏山」に避難するルートはいくつかある。
まず【図1】のシイタケ栽培場所だ。
ここへは大川小学校の児童はシイタケ栽培の学習で登っていたとされる。
遺族も訴訟において、ここに避難させるべきだったと主張した。
校庭からシイタケ栽培場所のルートを見ると、なだらかな斜面で避難できそうな気がする。
だが、栽培場所は開けているがその先は木々に覆われていて暗くて見えない。
津波が到達した8.7mより高い位置まで登るには、どれくらいの時間がかかり、小学校1年生から6年生まで、当時学校にいた100人余りの子供たちが全員(安全に)、ここに登ることができるのかどうか、判断は困難を極めるだろう。
では、【図2】のコンクリートたたきはどうだろう。
実際に、中学校1年生の生徒が、このコンクリートたたきを横切って避難した。
しかし、急勾配なこのルートを小学校1年生に登らせることは困難だ。
ましてや被災寸前のパニック時に、別の被害を想定するとここへ避難させる判断はしないだろう。
「判断」と「場所」の関連について、「裏山」を舞台に考えたとき、その場所だけを点で見ると、後から考えればそこに避難させるべきだったと言えるだろう。
しかし、そこには100人余りの、小学校1年生から6年生までの子供たちの存在がある。
その子供たちと日々、一緒にいた教師にしか感じられない不安な要素があったのではないだろうか。
その、教師だからこそ感じた不安が、「判断」に影響を及ぼした可能性はあるだろう。
では、最終的にそこに向かい、悲劇を生んだ「三角地帯」という場所への判断について考えてみよう。
そこには、もう一つの構成要素として挙げた「地域性」が関連すると考えられる。
(次回へと続く)