大川小学校の悲劇 ⑩津波事故の後の学校
「大川小学校の悲劇」と銘打ったここまで9回の論考は、東日本大震災11年目の3.11に大川小学校(震災遺構)を訪れ、震災後に当校の校長を務めた千葉照彦先生にお会いするために、自分なりに得られる知識を得て、考えを整理することが目的だった。
そして大川小学校の震災遺構を目の前にして、千葉先生から貴重なお話をお聞きし、多くの場所を訪問した。
そこには、語り継ぎ、これから先の学校教育に生かされなければならない貴重な教訓が散りばめられていた。
11年目の3.11に
宿泊した仙台市からレンタカーで1時間ほど走ると、大川小学校震災遺構に到着した。
そこには、多くのマスコミや人々が集っていた。
その様子を見て、特有の緊張感を感じながら改めて感じたことがあった。
今日この日、3.11はおよそ2万人の人々の命日だということだ。
そして、ここ大川小学校の震災遺構でも多くの人が花を手向け、手を合わせている姿があった。
そこで、千葉先生にお会いすることができた。
千葉先生は震災前、2006年から2008年の3年間、大川小学校の教頭を務めた。
その後異動し、2011年3月11日時点では石巻市立湊小学校で教頭先生として勤務していた。
その後、別の小学校で教頭職に就いていたが、2011年10月という年度途中に石巻市教育委員会に赴任した。
その特殊な人事は、大川小学校における遺族対応などのため、当校や地域をよく知る千葉先生にその役割が期待されたことが考えられる。
そして翌2012年4月。
千葉先生は大川小学校の校長に就任した。
津波で壊滅した学校はなく、大川小学校は別の小学校に間借りしていた(のち、2018年に閉校)。
そこでは、「生き残った子供たち」の教育に当たるという、ほとんど誰もが初めての教育活動に取り組むという難題が立ちはだかった。
生き残った子供たちとの日々で
大川小学校の子供は25人ほどだった。
もちろんそこには、兄弟を亡くした子供もいた。
この未知の状況下で、千葉先生は教職員たちと方針を決めた。
それは、
”今この状況下の子供たちの姿をありのまま受け入れ、そして少しの変化も見逃さない。”
ということだった。
給食を皆で食べる機会などを作り、異変を見逃さないチャンスを多く作った。
その中で子供たちが時おり、津波事故のことを口にすることもあった。
そんな子供たちには、”学校は心地いい場所なんだ”ということを感じさせるために、本気で子供に接することを心がけた。
その中で、校長としてのチェンレンジングな闘いは続いた。
卒業式では、亡くなった子供たちの卒業証書も発行した。
そして、卒業生と共に遺影を持った遺族が式に参加した。
ぼくは、大阪教育大学附属池田小学校の事件で、被害に遭った当時1、2年生の子供たちの卒業式を目の当たりにしているから、その千葉先生のチャレンジがどれほど勇気と信念が必要だったか理解できる。
卒業とは、遺族にとっては子供が生きた場所のひとつの喪失を意味する。
それだけに、子供を亡くした、それも学校管理下において子供を亡くした遺族にとっては、卒業式が持つ意味はそれぞれ重い。
しかも、大川小学校の遺族の数はとても多い。
その数の分、考え方も違うし願いも違う。
一つ一つの行事や取り組みにおいて、亡くなった子や遺族の願いをどう取り入れるか。
そしてそれは、今を生きる子供たちにどのような影響を及ぼすのか。
事件や事故、災害が及ぼす影響は、計り知れない。
(次回へと続く)