大川小学校の悲劇 ⑨見出された学校安全の課題

訴訟から見出された学校安全の課題

大川小学校の津波事故における訴訟は(以下、大川小学校津波訴訟)、一部の遺族(津波で亡くなった23人の子供の遺族)が提起した。

それまで取り組まれた検証委員会の報告書が、津波発生から3年が経とうとする2014年2月に発表された。
そして3年目を迎える前日の2014年3月10日。
大川小学校津波訴訟が仙台地裁に提起された。
23人の遺族が石巻市と宮城県に対して、その過失を訴えた。
その日は、津波発生から2年と364日で、民事訴訟を起こすことができる最後の日だった。

結果的に、一審判決は遺族の勝訴となったが、市と県は控訴した。
そして二審も遺族が勝訴し、裁判は終着点を迎えた。
終わったのは2018年4月。
津波発生から7年の歳月が過ぎていた。

この裁判結果は、教育界に大きな衝撃と責任を突きつけられたものだといえる。
判決では、津波ハザードマップが示す浸水予想区域について、
「教師は、独自の立場から批判的に検討することが要請される場合もある」
という指摘もあった。
要するに、教師は防災に関しても専門的な知識、判断力が求められるということだ。

同じように、「報告書」ではその第6章で、検証結果に基づく24の提言が付されている。
その提言のいくつかについて考察してみよう。

提言1:教員養成課程における学校防災の位置づけ

ここでは、教員養成大学においては、学校安全や防災に関する科目を、教職課程の必修科目として位置付けることが付言されている。
実際には、大学の教職課程コアカリキュラム(令和3年)において、「教育の基礎的理解に関する科目」の中の「教育に関する社会的、制度的又は経営的事項」に関する科目において、カッコづけで(学校と地域との連携及び学校安全への対応を含む)と付された。

この科目は多くは「教育行政学」という名称の科目で、教育委員会などにいた人が大学の教員になって受け持ったりしていることが多い。
したがって、その多くは学校安全の専門家ではないので、15回の授業のうち1回程度、学校安全についての講義をするなどでお茶を濁しているのが実情だという報告もある。
ぼくの大学では「学校と安全」という科目があり、ぼくが担当しているが、これは教職課程の必修科目ではない。
学校安全の専門家がいて、教職課程において必修科目としているのは、たとえば大阪教育大学などが挙げられる。
逆にいうと、そこしか思い浮かばない。
教員養成における学校安全の重要性は、さほど現実的に受け止め、運用されているとは言い難い。

提言3:教職員の緊急事態対応能力の育成と訓練

提言2は「教職員に対する防災・危機管理研修の充実」となっているが、ここでは提言3を取り上げた。
提言3の具体的内容として、

“校長、教頭などの管理職に平常時および緊急時のそれぞれに求められるリーダーシップの教育・訓練を実施すること“

が挙げられている。
大川小学校の悲劇では、校長が不在の中、実質的なリーダーは教頭が担うことになった。
そして二番手のリーダーが、教師で唯一生き残った教師Aだった。

大川小学校の悲劇では、いかにリーダーの判断が重要なのかが如実に示されたと言っていいだろう。
「三角地帯」への避難を最終的に判断したのは、教頭ではなく地域住民だったとされる。
また、「裏山」への避難を逡巡したのはなぜだったのだろう。
そこには、教師社会に存在するある種の「文化」が影響した可能性もある。
「裏山に避難して、もし子供に危険が及んだら」
「そこまでして、結局、津波が来なかったら」

提言3には、このような付言もある。

“各学校は、迷ったときには子どもの命を何よりも第一に考えた選択肢を選ぶことを教職員間で申し合わせ、その旨を行動指針として折に触れ確認すること“

実際の状況、その環境が示す空気。
関わってきた人の言葉。
それらがもっと多くのものを与え、考えてきたことを深化させるだろう。

今、2022年3月10日の空港。
仙台に向かい、明日、石巻の旧大川小学校へ向かう。

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