大川小学校の悲劇 ⑦災害と教育
災害に対して「準備をしておくこと」の困難について、ではどうすればその「閑却」から脱することができるのか。
このことについて考えてみよう。
「閑却」と教訓
元来人々は、災害における過去の経験を保存し、その災害に耐えることができた。
あるいは避けることができた集落や建築様式を保存し、進化させながら住まいを構築してきた。
そのひとつの例として、岩手県宮古市姉吉地区の「大津浪記念碑」の教訓はとても貴重なものだ。
姉吉地区は、1896年の明治三陸地震津波では生存者が2人だけという壊滅的な被害を受けた。
また、その37年後の昭和三陸地震でも、生存者は4人という大きな被害を被った。
この37年間は、姉吉地区には「閑却」があったのかもしれない。
しかし、この2度の大災害を教訓にし、「閑却」から脱した。
2度の災禍を経験した当時の住民たちが、義援金をもとに石碑を建て、
“此處より下に家を建てるな“
という警告を後世に伝えた。
その先人の教訓を守り、低地に集落を作らなかった姉吉地区では、東日本大震災で集落まで津波の浸水はなかった。
しかし、これはとても希少な成功例かもしれない。
例えば現代社会において、もっと大きな自治体で、「ここより下に家を建てるな」と言っても、そこには人々や社会、経済の利害関係が孕み、その教訓は形を失うのではないだろうか。
一つの例えだが、ぼくは依頼を受けて、「安全教育」や「学校安全」の講演をする。
多くが教育委員会の主催で、参加者は学校の安全担当教員や管理職だ。
そこでは必ず、ぼくが事件後10年間にわたり、当校で関わってきた大阪教育大学附属池田小学校事件についても話す。
話を聞いた教師たちは、一様に目を覚ましたかのように、
“今までの考えや取り組みが甘かった。学校に戻って学校安全と安全教育を推進していきたい“
と言う。
しかし残念なことに、それはなかなか推進されない。
理由は二つある。
ひとつは、例えばぼくの話を聞いた教師がそのように感じて学校で熱く語り、提案したとしても、教員全体でその思いを共有することが困難だからだ。
必ず、“そんな、いつ起こるかわからないことよりも今の子供たちにとって必要なことは他にもたくさんある“という教師が出てくる。
もうひとつの理由は、その講演を聞いた教師が、それを受け止める余裕がないか、あるいは受け止めたとしてもそれを推進するほどのエネルギーがないということだ。
これは、現在の教師の「多忙感」の強さに起因していることが多い。
学習指導要領が変わり、多くの変化に対応しなければならない中で、“なぜ、あえて「やってもやらなくてもどちらでもいいもの」をしなければならないのか“という感覚が働くのだろう。
学校における安全教育の推進にしても、あるいは過去の災害において先人が遺した教訓に対しての「閑却」も、残念なことに、歴史の中で有効な変化がない。
今から1世紀近く前、寺田寅彦は、1933年の昭和三陸地震の翌年に記した「天災と国防」の中で以下のように述べている。
(過去において、安全な集落をどこに作ればよいかという教訓について)、その大事な深い意義が、浅薄な「教科書学問」の横行のために蹂躙され忘却されてしまった。そうして付け焼き刃の文明に陶酔した人間はもうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所構わず薄弱な家を立て連ね、そうして枕を高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待っていたのではないかという疑いも起こし得られる。
「天災と国防」(寺田寅彦、1934年)
注:( )内、太字は筆者
解説の必要がないほど明確で的確に、現代の様相さえ生き写している。
100年前も変わらないのだから、これからも教師は、学校教育は子供や学校の安全に対して無力なのかという悲観的な思いが生じる。
しかし、一縷の望みはある。
姉吉地区では2度の災禍ののち、先人の教えを教訓にした。
釜石では防災教育の推進によって子供たちは津波の災害から身を守った。
そこで、教育と教師と地域の関連が重要になってくる。
大川小学校の悲劇を背景に、そのことについて考えてみよう。
地域と教育と教師
今論じていることは、大川小学校の悲劇における訴訟の一審判決の争点である、
「地震発生後に津波の危険を予見し、児童に命の危険が迫っていたことが認識できたか」
ということにつながっている。
大川小学校の悲劇の中で、釜谷地区の住民の感覚に重要な示唆がある。
それは、”大川小学校の教職員が、地域の実情に疎かったのではないか”という指摘だ。
この指摘は、最終判断(裏山に避難するか、三角地帯に行くか)を住民に、結果的には委ねたという実態が背景としてある。
この指摘は、教師にとっては厳しいものだが、どのように解釈するべきだろう。
公立学校の実態として、その学校に勤務する教師は「地域の住民」ではないことがほとんどだ。
だから、その地域の細部まで知っているかといえばそうではない。
ここで提案したいのは、防災教育は子供たちの命を守ためのみならず、教師がその土地のことを知るための契機になるということだ。
大川小学校の悲劇に関して考えると、教師は「裏山へ三次避難する」という判断ができなかった。
これを防災教育の中で、子供たちと避難場所を考え、裏山をその選択肢として発案し、体験的に非難行動をして考えていたとする。
その学習体験があれば、判断の際に大きく変わっていた可能性があることは否定できないだろう。
防災教育や安全教育は、子供(被災する可能性)だけのためではない。
守る側の知識やスキルを高めるためでもある。
ぼくがまだ初任の頃、土曜日や日曜日に地域の行事があり、順番に駆り出されていた。
とても面倒だったが、地域の人と知り合える楽しさもあった。
今では、「学校の働き方改革」もあり、管理職は教師にその業務を依頼しにくくなっている。
じつはこの状況が、災害時の子供の命に結びつく可能性があるかもしれない。
教師が勤務する学校の地域を知ることの重要性は、大川小学校の悲劇が教訓として伝えたことの一つなのだ。
寺田寅彦の叙述の中で、このような一節がある。
日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくとも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があってもけっして不思議はないだろうと思われる、
「津波と人間」(寺田寅彦、1933年)
地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発言方法の中でもっとも手近でもっとも有効なものの一つであろうと思われるのである。