大川小学校の悲劇 ⑥教師は予見できたのか
遺族が起こした訴訟ではその時の教師の判断における過失が認定された。
仙台高裁は学校側の過失を認め、石巻市と宮城県が遺族に損害賠償を支払うことを命じた。
裁判は司法の預かるところであり、「争点」というものが結果を左右する。
この訴訟は一審と二審で争われた(いずれも遺族側の勝訴)。
それぞれの争点は一審では
「地震発生後に津波の危険を予見し、児童に命の危険が迫っていたことが認識できたか」
ということであり、二審では
「危機管理マニュアルなど、学校の事前防災は適切に準備されていたか」
ということが争点になった。
それぞれの「争点」は司法によって結果が示されたが、ここではそれらを今後の「課題」として検証してみよう。
学校、教師は地震発生後に津波の危険を予見し、児童に命の危険が迫っていたことが認識できたか
まず前提として、大川小学校はその当時(2011年3月)はハザードマップの「津波浸水予想区域外」にあった。
学校はリアス式海岸とつながる北上川河口から3.7km上流にあり、避難所に指定されていた。
もはや、今では「想定外」という認識は言い訳にもならなくなっている。
それは東日本大震災における各地の津波被害が教訓にしたことだ。
だが、当時を考えてみると、日本でも有数の津波被害多発エリアである三陸沖で、それでも近年に大きな浸水被害を受けていないということであれば、「今回に限ってそうではない」という認識を抱くことは、誰にとっても困難なのではないだろうか。
過去には1960年5月に、マグニチュード9.5のチリ沖地震が発生し、三陸海岸では6mを超える津波被害で142人の命が失われている。
この津波では北上川を遡上し、それを見て覚えていた住民も、大川小学校近くの集落にいた。
しかし、その危機が「たまたま」今、ここを襲おうとしているとは思わない。
ここでぼくは、2001年6月8日に大阪教育大学附属池田小学校で発生した児童殺傷事件で、犯人と最初にすれ違った教師のことを思い浮かべる。
当時、開いていた自動車通用門から容易に校内に侵入した暴漢は、袋に入った包丁を持って子供たちがいる教室に向かっていた。
そのとき、1人の教師がこの暴漢とすれ違い、「挨拶」をしている。
しかし、暴漢は会釈も返さずにすれ違っていった。
そしてこの教師は、その暴漢が「保護者なのか、来客なのか」、ましてや「子供に危害を加えようとしている暴漢なのか」判別することができずに、事件を事前に食い止めることができなかった。
この教師は各方面で非難された。
遺族の気持ちを考えれば当然かもしれない。
しかし、ぼくたちはよく、校内でこのことを話題にして話し合った。
「自分なら、止められていたか?」
答えはいつも同じだった。
「自分でも、いや、誰にも止めることはできなかっただろう」
なぜなら、その当時は学校はどこよりも「安全な場所」だった。
子供たちはそこで守られ、その安全を疑いもせずに学び、親は安心して子供を学校に通わせていた。
学校に暴漢が侵入し、子供に危害を加えるなど考えもしなかった。
まさに事件は「想定外」だったのだ。
いや、じつはこの事件(2001年6月8日)のおよそ1年半前の1999年12月。
京都市の小学校に暴漢が侵入し、運動場で遊んでいた小学校2年生の男子児童が刺殺されるという事件が起きている。
この事件のあと、2000年1月に文部科学省は全国の学校に、児童生徒の安全を守る通達を出している。
しかし、2001年6月に池田小学校事件が起きてしまった。
京都の事件は、社会においては「稀な事件」として捉えられていた。
そして、学校においてもその感覚は拭えなかった。
閑却という「人間的自然現象」
なぜ、過去の事件や災害を教訓にして備えることができないのか。
このことを、寺田寅彦は「人間界の人間的自然現象」とアイロニックな表現をした。
1896年(明治29年)6月15日に「三陸大津浪」(内閣府における名称は「明治三陸地震津波」)が発生し、2万2千人の死者が発生した。
その37年後の1933年(昭和8年)3月3日に、「昭和三陸地震」が発生し、3千人以上の死者、行方不明者がでた。
このことについて寺田寅彦は、
「こんなにたびたび繰り返される自然現象ならば、当該地方の住民は、疾(とう)の昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる」
「津浪と人間」(1933年)
「それが実際にはなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える」
と述べている。
そして、なぜそうなる(人間的自然現象)のか、ということについては以下のような考え方を示した。
「三十七年と云えばたいして長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打ち際を照らすのである。」
「津浪と人間」(1933年)
「鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。」
要するに、どんな危険な事件や災害があったとしても、人間というものは今現在の、長く続いている平穏が、これから先も続くと思うのだということだ。
そして、たった一度、あるかどうかわからない災害のために住居や暮らし方を変えてまで備えることができないのが、「人間的自然現象」ということなのだろう。
これは、「忘却」というよりは「閑却」という方が適しているだろうか。
では、「準備しておくこと」は人間にとって困難なのだろうか。
どうすればいいのだろうか。
そのような、本質的とも言える「問い」が生じる。
冒頭の「地震発生後に津波の危険を予見し、児童に命の危険が迫っていたことが認識できたか」という問いに戻ってみよう。
これまでの知見から述べてきた内容からすると、ハザードマップでも想定されていず、過去の教訓も「閑却」の彼方にある状態で、教師が津波を予見することは相当困難であったと言わざるを得ない。
では、どうしようもないのか。
学校は、教師は、そしてそこで安心して学べると信じている子供たちは、次の災害に備えることができないのか。
そうではない。
次回、そのあたりについて述べたい。