大川小学校の悲劇 ⑤誰が、何が判断を左右するのか

大川小学校の教師は、なぜ津波が到来するぎりぎりまで三次避難を実施しなかったのか。
そして三次避難の場所として「三角地帯」を選択したのか。

その実態について検証してみたい。

15時14分 地震発生からおよそ30分以降

地震発生から30分が経とうとする頃、気象庁は宮城県に到達する津波の高さを6mから10mに引き上げた。

大川小学校のその頃は、地震直後から地域の住民が校庭に避難してきていた。
大川小学校が位置する釜谷地区には、震災当時393人が暮らしていた。
結果的に、住民のうち半数以上にあたる197人が死亡、あるいは行方不明となった。
そしてすべての家屋が倒壊し、その自然豊かな集落は多くのものを失ったのだった。

そこでは住民の避難と校庭に集めている子供たちが混在し、「引き渡し」の手続きや住民とのやり取りで、校庭にいる教師はおそらく混乱していたことだろう。

15時10分〜15時25分ごろ

校庭に避難している住民の一部は、20分後には津波が到来するという情報を持っていたようだ。
しかし、住民の中では釜谷地区まで津波は来ないだろうという意見や、学校にいる方が安全だという意見があった。

しかし、実際にはかなり緊迫した状況が差し迫っていたと思われる。

ちょうどこの頃、消防の広報車が大川小学校の前を走りながら避難を呼びかけている。
そして、教職員で唯一生き残った教師Aは、校舎内に確認等で戻っている。
そして校庭に戻り、再度教頭に、

「津波が来ますよ。どうしますか。危なくても山へ逃げますか」

と言っている。
また、生き残った子供の証言では、学校から校庭に出てきた教師Aが、

「山だ! 山だ! 山へ逃げろ!」

と叫んでいたと記録されている。

しかし、教頭から明確な返答はなかった。

これはあくまでも想像だが、この時のリーダーとして、教頭はかなり逡巡していたのではないだろうか。
山へ三次避難する危険と、学校に残る危険。

このとき、住民と教師の間で避難についてのやり取りがあったことが記録されている。
教頭は、山へ三次避難するという選択肢を有効だと捉え始めていたようだ。
しかし、これまでの経験から、釜谷地区までは津波は来ないだろうから、学校に留まるべきだという住民。

その時の様子を生き残った子供は見ていた。

”山へ逃げようと言った教員もいたが、学校にいた方が安全だという教員や地区の人もいた”

また、校庭に避難していた保護者は、

”教頭が男女4〜5人の地区住民に優しい口調で、「裏の山は崩れるんですか」「子供たちを登らせたいんだけど」「無理がありますか」と確認していた。”

と言っている。

そして、また子供はこんな光景を見ていた。

”教頭先生は山に逃げたほうがいいと言っていたが、釜谷の人は「ここまで来ないから大丈夫」と言って、けんかみたいに揉めていた。”

そして、決定的ともいえる「判断」の状況があった。
それを子供が聞いていた。

”教頭と釜谷の区長が言い争いをしていた。「山に上がらせてくれ」と教頭は言ったが、「ここまで来ることがないから三角地帯へ行こう」と区長は言っていた。”

そして15時25分ごろ、大川小学校から3.7km離れたところにある松林まで、津波が到来した。

15時25分〜 津波

15時25分〜15時30分ごろに関する記録(報告書)には以下のような記載がある。

河北総合支所の公用車が長面方面から新北上大橋方面へ戻りつつ広報

これに関しては別の報告によって詳細が記載されている。
広報車はこのとき、3台で警報を発信していた。
その3台は海岸沿いの松林を津波が超えてきたことを目撃し、Uターンして「三角地帯」を目指した。
そして拡声器で緊迫感を持って釜谷地区に避難を呼びかけた。
「小学校に伝わっている」「釜谷全体に聞こえれば」
そんな必死の思いで警報を発信した。

教師Aが教頭に、そして教頭が地区の区長らに「山への三次避難」を打診していたのは、この警報がトリガーになった可能性がある。

校庭では、まだ「引渡し」が続いていた。
しかしこの時には教師たちにも焦りが生じており、
「引渡しのチェックをしている時間もないので、いいよ、帰って」
と、その様子は大きく変わっていた。

そしてまだこの時、寒がる子供たちのために教師たちは、薪をくべて火を起こそうとしていた。

15時30分過ぎ 最終判断

15時30分を過ぎた頃、最終判断が下された。

教頭が子供たちに告げた。

「津波が来ているようです」
「急いでください。三角地帯へ逃げるから、走らず、列を作って行きましょう」

この決断を最初に子供たちや校庭全体に伝えたのは、学校の教職員ではなく、地区の民生委員の女性であるという報告もある。
いずれにしても、学校は地区の判断にしたがった。

「三角地帯」は学校からわずか300mのところにある。
そして学校よりも5〜6m、標高は高い。
子供たちを避難させ、その安全の動向を把握するためには、避難場所として思いつく場所だったのかもしれない。

また、緊迫した緊急事態に、教頭は「走らず、列を作って」移動するように子供たちに指示を出している。
これは学校の避難訓練におけるセオリー「お・は・し・も」に則った指示なのだろう。
「押さない・走らない・喋らない・戻らない」という指導だ。

学校や教師は、それをよしとしてきた指導内容については、疑ったり改善する、変革することが容易にはできない。
走って避難して、子供たちが怪我をしたらどうするんだ、という議論になる。
だが、ぼくはかつて、この点(走って避難してはいけない)について大きく考えを変化させるきっかけに出会った。

まだ小学校の教師をしていて、学校安全主任をしていた時のことだった。
全国学校安全研究会が島根県の小学校を舞台に開催され、ぼくはそこに参加していた。
学校全体での地震避難が公開された。
訓練の全体像は体育館でモニターを通して視聴できたが、ぼくはある学年の学級で、教師の指示や子供の動きも含めてリアルな姿を見ていた。

最初の方はどこ訓練も同じだが、机の下に避難し、揺れが収まれば廊下で整列し、運動場への移動を開始した。

ぼくは子供たちの後を追いながら避難経路を歩いていた。
ところがここから先で、ぼくの中では「あり得なかった」光景が展開された。
非常階段を降りて運動場へ向かう第一歩を踏んだ瞬間、先頭の担任教師は一目散に運動場の中央に向かって走り始めた。
それを追うように、子供たちは全力で走り始めた。

これは、「おはしも」の「走らない」の逆をいく避難だった。
全力で走る子供の中には、派手に転ぶ子供も見られた。
転んだ子供は、また立ち上がって一目散に友達の集団を追った。

ぼくは少し混乱していた。
その混乱を、後の協議会で校長先生に質問した。
協議会は体育館で開催され、数百人の学校安全関係者が集っていた。

「校長先生、あの避難のしかたでは、子供たちに二次被害が生じるのではないでしょうか。走らないで避難することが推奨されていますが、なぜ走らせるのですか」

すると校長先生は、毅然としてこう言い放った。

転んでも骨折する程度。骨折は治ります。怪我は治ります。だが、一刻も早く建物から離れることを優先します。建物が倒壊し、逃げ遅れて下敷きになれば命を失います

ぼくはこの時、校長先生の考え方、毅然としたリーダーシップに感銘を受けたものだった。

大川小学校に話を戻そう。

「三角地帯」に「列を作って、歩いて」避難し始めた子供と教師集団だったが、すぐにその行動は吹き飛んだ。
避難しようとする子供たちの目の前に、黒い水の塊が押し寄せてくるのが見えたのだった。
子供たちや教師は、その場で凍りついたり、それでも三角地帯を目ざして走ったりした。
そして助かった子供は、振り返って山の方に向かった。

教職員で唯一生存した教師Aは、校庭に出てみると子供たちが運動場を出て避難していくのが見えた。
そして後を追って列の後ろについたが、直ちに津波の来襲に出会い、目の前にいる子供を引き連れて山に向かった。

大川小学校に設置されていた3台の時計は、それぞれ15時36分、37分、38分で止まっていた。
仙台地裁はその平均をとって「15時37分」に大川小学校に津波が来襲したと認定した。

したがって、広報車による警報で津波の来襲を認識したと考えられる15時30分から、津波が来る15時37分まで、少なくとも7分間の時間的余裕があったことが争点となり、そこで判断した三角地帯への避難は、教職員の過失であると認定された。

大川小学校悲劇が物語る教訓として、学校の、あるいは教師の「判断の強さ」について考えてみたい。

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