大川小学校の悲劇と教師の果たした役割 ③子供の行動を決めた「教師による指示」

「もし自分がそこにいたら」

「自分がその立場だったら」

「自分の子供がそこにいたら」

そして、

「もし明日、そのような状況になったら」

大川小学校の悲劇から、そのように想像し、今生きる命に結びつけることが大切だ。

2011年3月11日の14時46分から津波襲来まで、大川小学校では何が起きていたのか。
教師はどのように動いていたのか。
残された記録から振り返り、整理してみよう。

14時46分 地震発生

学校ではちょうど授業が終わり、子供たちは下校の準備を始めた頃だった。
この頃、9日も10日も、東北地方では大きな地震が観測されていた。
しかし、この時の揺れは、これまでに経験しとことのないほど大きなものだった。

大川小学校辺りの震度は6弱。
その大きな揺れは、およそ3分間もの間継続した。

6年生の担任教師は、

「机の下にもぐれ!」
と指示を出した。

おそらく、どの教室でも同じような指示があっただろう。

これが一次避難だ。

14時49分過ぎ 二次避難

この時、校長は休暇をとっていて不在だったため、教頭が実質的なリーダーとなる。
校長は娘の結婚式で休暇をとっていたと記録されている。
当然、休暇を取る権利は校長にもあるが、「大川小学校事故検証報告書」(以下、報告書)には、

「校長不在により、平時はトップとしてリーダーシップを発揮する立場であり、かつ学校の本部として情報収集の役割を担う2名のうちの1名が欠いた中で対応する必要があったことが要因として関与した可能性がある」

と書かれている。
この校長は地震後、早期退職した。

校長不在の中でリーダーとなった教頭は、約3分間続いた揺れが収まった頃を見計らい、

「校庭に避難してください!」

とハンドマイクで子供たちに呼びかけた。
すでに停電で、放送は使えなくなっていた。
この地震当日、全校児童108人中、欠席児童を除く103人が校舎内にいたとされる。
子供たちが校庭に避難したときの気温は1.6度。

雪が舞い散る寒さの中だった。

14時52分 津波警報

一次避難を終えたとき、大川小の校庭にサイレンが鳴り、津波警報の発令を知らせた。
だが、そこで三次避難は開始されず、各担任教師による「点呼」が始まった。

この報告を読みながら、ぼくはあることを思い出していた。

震災後10ヶ月の2012年1月に、岩手県釜石市を訪れたとき、当時中学校3年生だった釜石東中学校の野球部の生徒にインタビューをした。

いわゆる「釜石の奇跡」の主役だったが、この生徒はとても印象深い話をしてくれた。
こんなことを言っていた。

「地震は、立っていられないほどの揺れでした。その中で、みんな校庭に集まってきた。校庭にはひび割れができていました」

「そして、津波が来るかもしれないと思ったので、点呼も取らずに、先生が逃げろーって走り出したので、ぼくたちも先生を追いかけるように、みんなで走って逃げました」

この先頭を切って走った教師は「率先避難者」としての役割を担って走ったのだった。
点呼は、避難した先の、まだその先の避難場所でようやく実施された。
これが、学校管理下では誰1人命を失わなかった「釜石の奇跡」だ。

ぼくはこのとき、釜石東中学校の副校長先生に、こんな質問をした。

「釜石の奇跡では、子供たちは誰も死にませんでした。しかし、大川小学校では多くの子供、教師が命を失いました。その違いの要因はなんだと思われますか」

副校長先生はうつむき、しばらく動かなかった。
そして、絞り出すような声でこう言った。

「私たちは、生きる方、生きる方へたまたま向かった。ただそれだけです」

点呼せず、想定にとらわれず、ただ走って「生きる方」へと向かった釜石の子供たちと、校庭に残り、「三角地帯」へと逃げようとした大川小学校の子供たち。

どちらも、「教師による指示」があり、それが子供たちの行動を左右したことは間違いのない事実だ。

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