大川小学校の悲劇と教師の果たした役割 ①11年目に向けて

まもなくやってくる2022年3月11日。
この日、東日本大地震から11年目の日を迎える。
11年の月日は、当時、小学校1年生だった子供は高校を卒業する年になる。
また、当時小学校6年生だった児童は、大学に行っていれば卒業して社会人1年目だろう。
その年月は、「当事者」ではないものにとっては忘却するのに十分な年月だ。

その11年目の3月11日に、ぼくは宮城県の石巻市立大川小学校を訪れる予定だ。
大川小学校と聞いてすぐに、その悲劇(各方面の捉え方で「事件」とも称すれば「事故」とも称されている。ここではその原因を追求したり批判することを目的とするものではないので、「悲劇」と称する)の詳細を思い浮かべる人はどれくらいいるだろう。

東日本大震災と教育活動

2011年3月11日、14時46分に地震(東北地方太平洋沖地震)が発生。
最大震度は7で、マグニチュード9.0を記録する大地震だった。
この地震は各地に津波を引き起こし、死者、行方不明者はおよそ2万人に上っている。

ぼくはこのこの震災時は小学校の教員をしていた。
終わりの会をしていると、同僚が教室に駆け込んできて、

「とんでもない地震だ!きて!」

とぼくを職員室のテレビの前に連れていった。

そこで目にしたニュース映像は衝撃的なものだった。

それは岩手県釜石市の大型スーパーの駐車場の様子で、津波が押し寄せ、数十台かそれ以上の車が、まるでおもちゃのように根こそぎ流されていく映像だった。

ぼくはその時、不謹慎にも(これを授業にして子供たちに伝えなければならない)と思っていた。

それから10ヶ月後の2012年1月。
ぼくは岩手県釜石市を訪れた。
2月の研究会で提案授業として発表する「釜石の軌跡に学ぶ」という授業構想の取材のためだった(この授業については拙著「どうすれば子どもたちのいのちは守れるのかー事件・災害の教訓に学ぶ学校安全と安全教育」ミネルバ書房 2017年、に詳しい)。

訪れた釜石市では、釜石東中学校と鵜住居小学校を訪れた。
まだ校舎は震災時のそのままで、階段に引っかかったままの子供のコートに言葉を失った。
職員室はまさに「ぐちゃぐちゃ」な状態で、4階の音楽室は残されていたが、黒板には卒業生が書いたのか、「津波のバカやろう」という文字が残されていた。

当時はまだ、津波によって被害に遭っている人々(行方不明者)がはっきりしていなかったため、見つかっていない遺体も多くあった。
夜、震災で不通となった鉄道の線路を歩きながら空を見上げると、夥しいほどの星が見えた。
ぼくはそれを、「美しい」とは思えなかった。
この星空の下に、まだ幾多の遺体が無念にも埋まっているのかと思うと、その美しさとの矛盾に震えがきたものだった。

釜石市立鵜住居小学校の校舎の3階に突き刺さっている車。(撮影は筆者、2012年1月)

その後、2017年には2回、福島県を訪れて研究調査を実施しているが、それ以来、防災教育に関しては2016年に発生した熊本地震を研究のターゲットにしていたこともあり、東北地方へは学会で訪れる以外には足を踏み入れていなかった。

だがぼくの中では、大川小学校の悲劇はずっと気になっていたし、機会があれば調査に訪れたいと思っていた場所だった。
そして今年、2022年1月17日。
阪神・淡路大震災の1.17の集いに参加したときに、1.17の集いに参加した時に大川小学校に訪れたことのある方に出会い、お話を聞くうちに自分もこの目で確かめたくなった。
そして今回、まもなく訪れる11年目の3.11に大川小学校(跡地、現在は震災遺構)を訪れることができそうなのだ。

そこでは11年目の大川小学校跡地やその周辺を視察する。
また、先の知り合いにどなたかに繋いでいただくようお願いしているところである。

何かが見えるだろうと思う。
それもでの数日間、このブログを通して「大川小学校の悲劇と教師」について、自分なりに考えてみたい。
11年目の3月11日。
きっとその答えが見つかるだろう。

テーマの主体は、あくまでも教師にしよう。
そのことによって、これから来たる南海トラフ地震における「教師の役割」につながっていけばと思う。

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