「最終回 憧れの教師に 〜それは、すべてが変わるところから始まる〜」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.100
教師はいい職業なのか、という問い
ここまで、教師の「憧れ」について探究し、No.100を迎えた。
ここでひとつの区切りをつけようと思う。
そこで、「教師の憧れを取り戻す」探究の旅のなかで、何を課題として発見し、見出してきたのかを振り返ってみよう。
ぼくが小学校の教師という職を離れ、大学の教員として今度は教師を志す学生たちと日々接しながら、そして彼らが教師となってからの姿を追ってくるなかで、ぼく自身のなかでひとつの「問い」が発生していた。
それは、
教師はいい職業なのか
ということだった。
教師を志して大学に入学した学生は、その志を持ち続ける学生もいれば、その志に不安の影が忍び寄り、別の職業を選択しようと、将来の自分の姿を変化させる学生もいる。
だが、教員を養成する大学は「懐古主義」の真っ只中にいて、
「教師とはこうあるべきだ。教師とは、こんなに素晴らしい職業なんだ」
と説き続け、教師とは「見本」となるべき存在だから、実習や訪問に行くときには髪を黒に戻して行きなさい、などつまらないことばかり教え、学生は白けていき、「私の人生を輝かせるところはそこじゃない」と考え始めている様子が見えた。
そこでぼくはこのように考えた。
学校や教師は、もっともイノベーションから遠い存在ではないだろうかと。
変化や進化を恐れ、「不易」の価値を重んじる。
「不易」は重要だし、後継に重要な示唆を与えることは否定しない。
ただ、伝える、学ぶ必要のある「不易」であればの話だ。
今の教育界の現状は、「昔の教育はよかった」が前提のような気がする。
だから教師を目指す学生や、新任教員のところで摩擦が生じ、教職への「憧れ」を色褪せさせている。
そんなことを、この探究の旅の初め(No.1)に書いた。
だからこの探究の旅のテーマは、
「教師や学校の懐古主義からの脱却と、学校・教師像のイノベーション」だった。
では、その懐古主義の原因は何か。
そして、「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」。
ということについて、様々なトピックを取り上げて論考を進めてきた。
そして、「結論」になるかわからないが、この旅の終着点にあったのもを一言で表現すると、
「創造性の教育と教師」
ということになるだろうと思う。
「創造性」の教育と「自由」の存在
本来、学校や教育というものは「創造性」のなかにあるはずだ。
クリエイティブと言い換えてもいい。
だが、その「創造性」の姿が学校や教師のなかで見えてこない。
なぜなら、「創造性」は「自由」の中からしか生まれてこないからだ。
今、そして昔もそうだが、学校や教師は「支配」のなかに存在している。
このことを「カリキュラム・イノベーション」から考えてみると理解しやすい(No.88~No.92を参照)。
カリキュラムとは本来、「子供の側にある」ものだ。
それをぼくは、「カリキュラムとは、子供(人々)がその社会(世界)のなかでよりよく生きる(Well-Being)ための「地図」である」と表現した。
しかしカリキュラムの実態はとてもポリティカルなものであり、そこに「創造性」が存在する余地はなく、教師はいつしか、そのように仕込まれてきた。
だから、コロナ禍に対応できなかった。
たとえば、現役の教師に「なぜ、国語や算数(数学)にこだわるのですか」「なぜ、道徳(科)の研究会に参加したいのですか」と問うと、どのような答えが返って来るだろう。
それが主要教科だから
受験に必要だから
道徳が教科化されたから
子供たちにとって大切だから
この時点で、教育の「支配」構造が見える。
では、ここでいう「創造性」が存在できる「自由」とは何か考えてみよう。
それは、“リベラルアーツ“について考えると答えが見えてきそうだ。
リベラルアーツとは、ギリシャ・ローマ時代の「自由7科」(文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽)が起源となっている。
そしてこれは、日本における現在の学修体系と大きく異なっている。
リベラルアーツは言うなれば、「自由人として生きるための」教養であったということができる。
それにはもちろん、ローマ時代の奴隷制が関わっているので一概に現代の学修体系と比較することはできないが、「自由人として生きる」という意味では現代的な課題と置き換えて考えることができそうだ。
日本における学修体系、あるいは授業形態、そしてテキスト(教科書)のつくりというものは、ひとつの事柄を中心にして構成されている。
それは、「正解」というものの存在だ。
そして正解を求めさせる学習は、社会おいて必要な人材(使いようのいい)を育成する。
学校教科書には「指導書」なるものがある。
ここには、子供が持っている教科書と同じ構成のなかに、所狭しと赤い文字で「正解」「教え方」が書かれている。
新任の教師にとっては強い味方になるだろう。
しかしこの時点で「支配」があり、「多様性」が失われている。
リベラルアーツは、「多様性を理解」し、「人間を自由にする」ための学修体系であったと言える。
現在の日本の学修体系、あるいはカリキュラムでリベラルアーツに最も近いものは「総合的な学習の時間」(総合的な探究の時間)だろう。
ぼくが考える「自由」とそこに存在する「創造性」の学修体系とは、「探究学習」がメインとなり、その探究課題を追究し、論じ、形にしていくために必要な用具教科が現在の「主要教科」であるというものだ。
このような学修体系を実現する学校は、現在の日本という国の制度の「なかでは」実現できない。
しかし、そのような「実験校」を作ることはできないだろうか。
学校・教育のユートピアについて話をしよう。
学校・教育のユートピア
まず、日本の国家が教育に、これまでの何倍もの予算をつぎ込む。
経済学者のエステル・デュフロは、「貧困問題で一番注目すべきなのは、経済成長ではなく貧しい人々の収入や教育だ」と言った。
子供の貧困と教育について論述したが(No.98)、貧困から子供たちを救う唯一の方法は、教育の中にある。
そのことに国家が気づくことができれば、教育に予算を注ぎ込むだろう。
その何倍もの予算で、何をすればいいのか想像してみよう。
一番いいのは、教師の給料を何倍にも上げることだ。
そして、教師を「夢のある職業」にする。
なぜ子供たちが、プロ野球選手やユーチューバーに憧れるのか。
それは、夢のような高額な報酬を、その身ひとつと己の才覚で稼ぐからだ。
すると、教師という職業に就業することが困難になる。
競争率が上昇し、多くの学生が必死になって教育学を学び、教員採用試験にチャレンジする。
その結果、優秀な学生が教師の道を、「自分は教師になれたんだ」という誇りに包まれて歩み始める。
ただし、教員採用のシステムはこれまでのように、筆記試験と数分間の面接や模擬授業、実技試験というような形では実施しない。
なぜなら、この時点で教師の「資質・能力」は変容しているからだ。
教師に就くために最重視されるのは、
「創造的」で「探究的」な学習をカリキュラムできる高い「創造性」と広く深い教養を持っているか
ということになる。
だから、教員採用試験は180分で5000字の論述試験で、ドリルや教員採用試験問題集をいくらやっても論述できない、多様な学修が求められるテーマが課せられる。
では、これまで重視してきた「人物評価」はどうするのか。
これについては、現在実施している面接等による人物評価が機能していない、意味がないのでやめればいい。
15分程度の面接で、一体何を見抜くことができるのだろう。
学生たちは、今も面接練習だと言って大学の担当部署を訪れ、大学が引っ張ってきた退職校長やかつての採用担当者と面接練習を繰り返す。
その、「練習の成果」を採点している現行のシステムでは、教師としての将来性や能力は見抜けないだろう。
教師は、教育現場で成長する。
だから、採用後の研修の充実と、定期的な能力検定が必要になる。
何よりも、高い倍率をくぐり抜けて教師になろうという学生は、すでに熱意と希望に包まれている。
そして、「創造的」な学校・教師を創造していくために必要なのは、現行の文部科学省、教育委員会制度の中から学校を解放し、独自の創造的な学校を、学校単位で作っていく自由が与えられる。
ここで理解できる。
「創造性」が存在する「自由」とは、とても厳しく怖いものだ。
簡単ではない。
そして、「自由」が与えられた学校では「探究」と「現代リベラルアーツ」の2科目がある。
この2科目で求められるのは、「解決しようのない難題に、多様な知識を使って取り組む姿」だ。
この科目では「正解」がないから「間違うこと」はない。
それぞれの子供たちが自主的に、あらゆるチャレンジをする。
そのチャレンジに必要な学問を、必要に応じて学んでいく。
そして、この「創造性」の学校では、「同調性」はいっさい求められない。
なぜなら、互いに依存がなく、自主自立の個が存在し、互いへのリスペクトがあるからだ。
だからいじめは存在しない。
いじめる必要がない。
「妬み」が存在しようがないからだ。
これが、ぼくの考える学校・教育のユートピアだ。
そしてそこにいるのは、教師だ。
このような夢(物語)は、ぼくが発するのではなく、学校現場にいる教師が語っていく。
学校や教育、そして教師の世界のディストピアは、誰も聞きたくないし、語りたくもないだろう。
教育とは、終わりのない複雑な世界だ。
社会が動けば教育も動く。
しかし、そこに教師がいて、教師がその舵を切ることにはいつの時代も、どのような社会であれ、世界中で変わりのないことだ。
こんな職業は、他にあるだろうか。
永遠に変わらないもの
世界中に教師がいる。
そして、それぞれの形がある。
だが、世界中の教師に変わりのない、普遍的なものがある。
それは、子供たちの人生に大きく関与しているということだ。
そして子供たちは、いつも期待と「憧れ」の眼差しで教師をみる。
「今日から、この先生と一緒に学校生活を送るんだ」