「まとめ⑦ 自分の感受性くらい」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.99
ある研究会で
先日、ぼくが副会長兼事務局長を務める研究会が開催された。
この研究会は、現場教師が飛びついて参加するような教科教育(とくに算数や国語、最近なら道徳)の研究会ではなく、教師にとっては「やってもやらなくてもいい」あるいは「そこまで手を出す余裕がない」という範疇にあるジャンルの研究会で、「いのちの教育」に関連するものだ。
この研究会が創始されたきっかけは1995年の阪神・淡路大震災であり、子供の死生観を大規模調査するなど、震災といのちを結びつけたとても貴重で意義と歴史ある研究会だ。
数年前にお声かけいただき関わらせてもらっているが、いつも集客に苦労した。
そして今回は、コロナ禍で2年ぶりの開催となり、それでもオンラインでの開催となった。
そして、自治体の共催から教職員の「動員」で参加した教師も多かった。
だからだろうか。
「やらされている」「仕方なく参加している」という感じの教師がオンライン上でも見受けられ、残念な心持ちがした。
そして、ふざけているのか真面目にやっているのか、
「私は怒っている」(何に対してかはわからずじまいだった)
という表現なのだろう。
赤鬼の面を被って参加している教師もいた。
この研究会のテーマは「コロナ禍といのちの教育」であり、コロナ禍によるカリキュラムの課題はもちろんだが、「子供のいのち」に焦点をあて、現場の教師や研究者の講話と、オンラインのグルーピング機能を使って会場参加型のディスカッションも実施した。
このテーマはありきたりのようだが、子供たちの人生、あるいはWell-Beingに関わったものだ。
Well-Beingは、WHO憲章の前文に表現されているもので、
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること。
と表現されている。
ぼくは授業ではよく、このWell-Beingを
「よりよく生きる」
と表現する。
この「よりよく」という意味は、BetterというよりもHappy(幸せに)やBe Myself(自分らしく生きる)という感覚に近いだろうか。
コロナ禍は、人々のWell-Beingを揺るがしている。
学校が大きく揺らぎ、子供たちのいのち(Well-Being)が揺るがされている。
この辺りについては次のシリーズで語っていこう。
今回話したいのは、この研究会に参加した教師の言葉だ。
オンライン上でグルーピングし、それぞれ研究会での基調提案を受けて(ぼくも『コロナ禍における反脆弱性の教育』というテーマで提案した)現場ではどうか、というディスカッションをしてもらった。
そしてメインセッションへ戻ってきて、各グループから出た話をグループの代表が発表し、全体で共有するという場面でのことだった。
あるグループの代表の発言に、ぼくは少なからずショックを受けた。
また同時に、(やっぱりそうなのか)という思いもよぎった。
その発言とはこのようなものだった。
”私たちのグループでは、なんだか今、ストレスを感じている、という話題になりました。
どの発表が、とかではないんですが、こんなに忙しいのに、まだ頑張れと言われなければならないのかと”
この発言のあったグループは、”赤鬼”のコスチュームで画面の向こうにいる教師のグループだった。
やはりあのコスチュームは、何らかのストレスの表現だったのかと思った。
同時にぼくは、正直に言うと、(では、このような研究会に参加しなければいい)
と思った。
動員をかけられて仕方なく参加しているのかもしれないが、その瞬間を学びに変える力は大切なものだ。
このグループの発言を聞いたとき、ぼくは新学習指導要領における「子供に育成したい資質能力」のひとつ、「学びに向かう力、人間性」という文言が脳裏に想起した。
学びに向かう力は、子供だけに必要なのものではない。
自分の感受性くらい
今、その多忙感ゆえに教師の心は”ぱさぱさに乾いて”いるのだろうか。
それは、文部科学省のせいなのか。
日本のせいなのか。
コロナのせいなのか。
まさか、子供たちが教師を忙しくさせているのか。
そして今、笑顔だった教師が”気難しくなってきた”のか。
なんだかストレスが表情に現れ、常に文句を言うように構えてしまっているような。
今日も忙しかった。
今日も帰りが遅くなった。
今日もあの子はいうことを聞かなかった。
今日も授業がうまく行かなかった。
今日も子供たちが喧嘩した。
私の人生はこんなはずじゃなかった。
それはすべて、今という”時代のせい”なのか。
わずかに、心の底で輝こうとしている教師としてのプライドはどこに。
そして茨木のり子はこう言った。
”自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ”
もうやめよう。
自分の身を嘆くことは。
教師は、”ギラリと光る宝石のような”存在だ。
そんな姿を見せていこう。
子供たちに、社会に。
これから教師を目指す学生に。