「まとめ⑤ 教師になる高い志」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.97
教師を目指した時の「高い志」
先日、1人の学生がメールで面談を申し込んできて、ぼくの研究室にやってきた。
その学生はぼくの授業をとっていたし、とても優秀な学生だったから知ってはいたが、ぼくのゼミ生でもないし学科も違う。
そんな疑問を持ちながら話を聞いた。
それは、とても感心する相談内容だった。
その女子学生(仮にAさんとしよう)は、
「中学校か高等学校の数学の教師になりたい」
と言った。
中高の教師の採用試験倍率はどうだろう。
小学校の教員採用試験の倍率が過去最低を更新していることについては、このブログの初めの方で詳細に触れ、その要因について探究を試みてきたところだ。
大阪府の中学校と高等学校の数学教員に限定して見ると、2022年度で中学校は3.3倍、高等学校で4.8倍と、それほど高いわけでもない。
全国的には中学校教員が4.3倍(前年度5.0倍)、高等学校教員で5.0倍(前年度8.2倍)と発表されている。
いずれにしても、中学校、高等学校教員の公立学校採用試験の倍率も、小学校教員同様に低下していることがわかる。
その倍率を見ると、Aさんの学力やパーソナリティーからすれば、現役で合格する可能性はかなり高いと思われた。
しかしAさんはこう言った。
「私は、公立学校の教師にはなるつもりはありません」
ぼくは、どうしたいのか聞いた。
するとAさんは、淀みなく自身の目指す道を語った。
彼女が志す教員とは、たとえば30人の学級であれば、その中にいる5人の、「授業を理解できずに苦しんでいる生徒」を救い出すことだという。
公立学校だと、一斉授業の名の下にその生徒は埋もれてしまい、将来の希望の選択が狭められてしまう。
だから、できれば私立の中高一貫校で、しかも「通学」を前提としない通信制の学校で勤務したいのだという。
ぼくはその、教師になる上での高い志に感心した。
そして、ぼくのところにきた理由がわかった気がした。
ぼくはAさんに尋ねた。
「ゼミの先生には相談したの?」
すると、Aさんは「しました」と言い、こう続けた。
ゼミの先生に相談したら、「響きませんでした」。
おもしろい表現だった。
Aさんは続けた。
「ゼミの先生は、まず公立の教員採用試験を受けなさい。そして、合格した後で私立の学校を探せばいいのではないか。公立に合格しておいた方が、私立の学校に採用されやすくなるよ、と言われました」
これを聞いたとき、二つのことを感じた。
一つは、そのゼミの教員は立派だと思った。
前回のブログ(No.96)で、教員養成系大学のジレンマについて書いた。
大学での専門的な学びよりも、採用試験の合格者数を増加させることに四苦八苦し、専門学校化している現場について書いた。
Aさんのゼミ教員の言葉には、そのジレンマが如実に現れている。
そして、大学の利益(Aさんを公立学校の採用試験の合格者にすること)を優先してAさんに伝えている。
この点は立派な、「組織人の姿」だと思った。
二つ目に感じたのは、「だからぼくのところに来たんだな」と言うことだった。
Aさんはこう続けた。
「そうなんですか?公立学校の採用試験は受けた方がいいんですか?」
ぼくは3秒で返事した。
「受けなくていい」
ぼくは大学の教員になった頃、教員採用試験対策の主担当者となった。
寝ても覚めても採用試験のことで頭がいっぱいで、休みなく働き、学生を叱咤激励しながら取り組んだ。
そして一つのシーズンが終わり、ぼくは燃え尽き、反省ばかりが残った。
気づいたのだ。
ぼくは、大学の利益(採用試験合格者数)のために必死になっていたのであり、学生の幸せな人生を願ってのことではなかったのだと。
そのことに気づいたのは、その年の1人の学生の涙だった。
その学生は、A県の教師になることを望んでいた。
しかしぼくは、学力から考えてB県の養成セミナーに参加することを強く勧めた。
そのセミナーの採用テストに合格して半年のセミナーに参加すれば、教員採用試験の1次試験が免除になり、そして最終的にはセミナーからの合格率は90%近くあった。
要するに囲い込みのようなものだ。
各自治体も、数分の面接でその学生の、教師としての資質を見抜くことは困難だ。
そこでこのようなセミナーを開催し、「いい学生」を囲い込むのだろう。
しかし、セミナーに入り、その自治体の教員採用試験に最終的に合格すると、その自治体の教師にならなければならないという「約束」がある。
だから、A県の教師になることを希望していたその学生は、B県のセミナーに参加することを断ってきたのだった。
とても申し訳なさそうに。
だが、必死だったぼくは、それでもなお学生にセミナーへの参加を求めた。
そしてその学生は、セミナーを受講することになった。
その学生は、最終的にセミナーを受けたB県の採用試験には合格し、そして第1希望だったA県の採用試験にも合格した。
とても悩んでのことだろう。
合格発表を終えた秋のある日、ぼくの研究室にきてこう言った。
「先生、私、A県の教師になりいたいんです」
そう言って涙をポロポロとこぼしたのだった。
ぼくはその涙を見て、自分はなんと罪深い人間だったのだろうと思った。
そして、大きな勘違いに気付かされた。
学生の人生は学生のものであり、大学のものではないということだ。
ぼくはその学生に、率直に謝った。
セミナーに無理やり行かせたことを。
そして、希望するA県の教師になればいいと言った。
そのことで、自治体からの印象が悪くなるとか、合格者が出なくなるとか、根拠のない憶測による非難はあっただろうが、そんなことのために学生が自身の将来を選択することは間違っている。
その体験が、今でもぼくの学生指導の、そして大学教員としての生き方の根底にある。
だから、Aさんには公立学校の教員採用試験は「受けなくていい」と言った。
Aさんが受けるとなると、今から1年半、公立の教員採用試験の勉強にかかりっきりになるだろう。
この1年半の闘いは、とても長く苦しいものだ。
次々と、早々に一般企業に就職を決め、残りの大学生活を謳歌する友人を見て、とても羨ましくなるものだ。
そして4回生の秋。
採用試験の結果が出て合格していれば、おそらくAさんはその自治体の教師になるだろう。
1年半の苦しい闘いを終え、合格しているにもかかわらず、私立の学校の採用に向けて勉強し、奔走するエネルギーは残っていない。
だから、もし今の志を強く持っているのであれば、「受けるべきではない」と言うアドバイスをした。
その後Aさんは、やはり自身の志を貫くために、自身が望む体制の私立中高等学校をいくつかピックアップし、説明会などに積極的に参加している。
このAさんの姿から、多くのことを感じ、学ぶ。
今、多くの教師は、「多忙感」に覆われ尽くされながらストレスを抱えている。
コロナ禍が、それに追い討ちをかける。
だが、それは今、ぼくたちが立っている「時代」であって、誰のせいでもない。
それよりも、こんな時こそ教壇に立ちながら、あのとき、教師を目指しながら奮闘していたとき、「なぜ教師になりたかったのか」「教師として、何がしたいと思っていたのか」、思い出すことも必要だろう。
それを、純粋に目を輝かせながら言う学生の姿は眩しく、そしてとても貴重だと感じた。
このような学生に、ぜひ教師になってほしい。