「まとめ② 教師の働き方」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.94
教師の働き方と憧れの関連
教師の仕事というものは、「労働時間」や「労力」では測ることができない。
たとえば職員室に残り、夜遅くまで学級通信を作っている姿は立派だと思う。
あるいは朝の教室で、教卓に山積みになっている漢字ドリルを前に、一心不乱に赤ペンを振るう姿も同じだ。
しかし、それは教師個人が良かれと思って(あるいは必要なものだと判断して)していることであり、「多忙化」の要因には当たらない。
昔から、教師の「業務」における線引きはとても難しかった。
そこで近年、文部科学省が「学校の働き方改革」について答申を出した。
「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」(平成31年1月25日 中教審)
というものだが、これまで、教師が担ってきた多種多様な業務に改善の梃入れがされたことは価値あることだ。
だが、それが世間が期待する学校、教師の姿とズレを生み出していることも否めない。
たとえば、文部科学省は「学校の働き方改革」における効果的と思われる取り組みについて、以下の上位10項目を挙げた。
1.部活動ガイドラインの実効性の担保
2.学校閉庁日の設定
3.ICTを活用(校務支援システム等の活用等)した事務作業の負担軽減
4.留守番電話の設置やメールによる連絡対応の体制整備
5.部活動への外部人材の参画
6.スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、特別支援教育
等の専門人材、日本語指導ができる支援員等の専門的な人材等の参画7.保護者や地域・社会に対する働き方改革への理解や協力を求める取組
8.行事等の精選や内容の見直し、準備の簡素化等
9.学校に向けた調査・統計業務の削減
10.サポート・スタッフをはじめとした授業準備等への外部人材の参画
https://www.mext.go.jp/content/20200217-mxt_zaimu-000002687_11.pdf
この中で、4の「留守番電話の設置やメールによる連絡対応の体制整備」とは、要するに学校に電話が「必要以上に」かかってこないようにするために方策だ。
夕方5時を過ぎ、子供たちが下校した後、保護者から電話がかかってくる。
それは多くの場合、「いい話」ではない。
ほとんどがクレームであることが多い。
対応した教師は心身ともに疲弊し、対応に追われる。
中にはすぐに対応が必要な事案もあるが、どうだっていいようなこともある。
だが、親にしては我が子のことで必死だから、教師を頼って電話をしてくる。
しかし、夕方以降は教師にとってはとても貴重な時間で、翌日の授業準備や校内の業務に当てたい時間だ。
そこで「留守番電話」が設置され、18時以降は学校の電話を留守番電話に切り替える自治体、学校も増えてきた。
このことが世間で公になったとき、批判的な声も聞かれた。
これは、たまたまぼくが「通学路の安全」について、あるWEBジャーナルに取材を受けたときの記事に同時に引用されたものだ。
今回の働き方改革の一つとして、登下校の見守りについては、「学校以外が担う業務」として分類されたことを受けて取材を受けたものだが、とても興味深い記事が引用されていた(以下)。
確かに、ここでタレントの若槻千夏さんに言っている教師のことも理解できる。
そこには、教師は「親ではない」という分別と、親なら子を守るべきだという教師としての視点も感じられる。
だが、親として「寂しい」と言っている気持ちもわかる。
そこには、学校や教師に対する期待に、「応えてもらえない」という失望感が感じられる。
親は、「学校や先生は、私たちにいつも寄り添って、なんでもしてくれる」と思っている。
教師たちは、そんな期待に応えてきた。
それが、教師への「憧れ」を生み出してきた。
例えばこんな話をしよう。
これまで見てきた「働き方」とは違うが、「業務」を超えた教師の姿と、それを見た大学生の言葉だ。
大学生が憧れた教師の姿
2016年4月。
熊本県を大きな地震が襲った。
震度7の巨大地震が2度も立て続けに発生し、熊本城を初め、多くの建物が倒壊し、人々の生活は一変することになった。
とくに益城町は甚大な被害を被り、益城町立広安西小学校の校庭には、夜になって大量の自家用車が避難に訪れた。
当時、当校の校長だった井手文雄先生(現在は山都町教育長)は、地震発生直後の夜、倒壊した自身の家の瓦礫をかき分けて学校に行った。
災害時に避難所を開設するのは、本来であれば行政の役割なのだが、悠長にはしていられない。
井手先生はその手で、即刻避難所を開設した。
以来、ほぼ1ヶ月間、井手先生は家に帰ることなく避難所を運営し続けた。
当校の教師も学校に集まり、数千人が使用する学校の数少ないトイレを、昼夜問わず交代制で清掃した。
これは、明らかに「業務」を超えた、そして「多忙感」という言葉が吹き飛ぶような状況だ。
ぼくは何度も熊本で井手先生に会い、いろんなお話を聞いた。
もっとも印象的だった言葉はこんな言葉だ。
ぼくが井手先生に、「なぜそこまで、自身のことも顧みずにされたのですか」と聞いたときの言葉と、そして井手先生の表情は忘れられない。
「うーん・・・。そこに被災者がいた。ただそれだけです」
そう言って、井手先生は(当然のことをしただけです。そんなに持ち上げないでほしい)と言わんばかりの照れ臭そうな表情を見せた。
ここには、崇高な「使命感」が「多忙感」を凌駕した“教師のノブレス・オブリージュ”がある。
ぼくはあるとき、教師を志す学生10名を熊本に連れて行った。
そこでは、井手先生のお話を聞いたり、ボランティア活動をしたりした。
帰って来てから学生にレポートを書かせたのだが、そこにはこんな印象深い学生の言葉があった。
私は、今回この研修に参加し何度も涙が出そうになった。
避難所のスタッフの方々は自分のことよりもどうすれば快適に過ごしてもらえるかを常に考え、学校の先生は地震直後来なくてもいいと校長先生がいってもすぐに駆けつけ自分のできることを探す。
小学校にお邪魔した時、壁には一面に他府県から送られてきた熊本がんばれという寄せ書き、そこにはまだ復興できていない東日本大震災で被災した小学校からのものもあった。
人の温かさの凄さを感じたのと同時に、他人事としてテレビで見ていた自分が恥ずかしくなった。そして何と言っても、子ども達を必死で支えた先生方がとてもかっこよかった。
行くまでは、将来小学校教員になりたいと思っている自分に子ども達を守れるのかなど不安しかなかった。
しかし、先生方は自分のことよりも必死になれたのはあの子ども達の笑顔を見るためになのかと思うと、不安などなくなり何としても子ども達を守りたいと感じるようになった。
私もきっと震災後すぐに駆けつけるだろう。
このようなことを感じさせる教師の姿には「憧れ」を持たれる要素がある。
そして、新たな教師を生み出していく。
採用試験の競争率や働き方改革、多忙感。
学校教育を取り巻いている様々な状況がある。
しかし、一番大切なのは、「かっこいい教師」であることではないだろうか。
「憧れ」を持たれる、かっこいい教師が次の世代を生み、そして子供たちを幸せにしていく。