「カリキュラム・イノベーション③ 〜カリキュラム・マネジメントの本質〜」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.90

カリキュラム・マネジメントの主体は誰なのか

カリキュラムは教育の骨格を形成するばかりか、人生や国家の形成に強く関与することについて述べてきた。
学校教育におけるカリキュラムは、社会の、そして世界の変化とともに変容することは当然のことだ。
でなければ、戦時中の学校教育カリキュラムが現代でも生きていることになり、いつまでも時代遅れの学校教育が継続されることになる。
と言いながら、実は学校教育のいたるところに「時代遅れ」は存在している。

運動会、宿題、板書、学級の形態、職員室の慣習・・・。

これについてはいつか論じる機会があると思うが、今回は引き続いてカリキュラムについて論考しよう。

時代を読み、時代に合わせ、時代を先どるカリキュラムの変容の主体は教師であるはずだ。

2020年2月28日。
新型コロナウイルス感染拡大に伴い、政府より全国の小中学校に春休みまでの休校要請が発出された。
この休校措置は結果的には6月まで継続され、全国の小中学校が授業時数の調整、行事の精選等に追われることになった。
この様相の中で、「カリキュラム・マネジメント」という言葉が教育界で頻出することになる。
本来であれば、2017・2018年次改訂の学習指導要領が施行され、その中でカリキュラム・マネジメントの視点が強く押し出されたことから、各学校において

子供達の姿や地域の実情等を踏まえて、各学校が設定する教育目標を実現するために、学習指導要領等に基づきどのような教育課程を編成し、どのようにそれを実施・評価し改善していくのか」


文部科学省 教育課程企画特別部会 論点整理 p.21−22

ということについて取り組んでいくことになるはずであった。
しかしコロナ禍において、カリキュラム・マネジメントの「目的」が変化した、あるいはトランジションと捉えるべきか。
いずれにしてもその「目的」はコロナ禍に対応する「手段」となった感がある。
その結果、学校や教師はカリキュラム・マネジメントを、政府が発出した休校要請の結果、大幅に縮小された授業時数を行事等の調整で捻出すること、のように受け止めている実情が否めない。

このことに関連して、過去の研究を見てみよう。

鄭(1999)は「教師をカリキュラムの開発者(developer)とみなすか、それとも使用者(user)とみなすか」という問いを投げかけ、「カリキュラム研究は常に教師の役割をどう捉えれば良いかという問いに直面」してきたと述べた。

同時期に佐藤(1999)は、教育改革と教育研究の焦点が「カリキュラム」から「教師」へとパラダイムシフトしたと指摘し「トップダウンの方式でカリキュラムを開発し普及して教育の生産性と効率性を追求する時代は終わったのである。 問われているのは、教育経験の質であり、教育問題の構造的な解決である。カリキュラムから教師への中心軸の移行は、このような社会の改革と学校の改革の様式の変化を反映していると言えよう」と述べた。

このような、カリキュラムの主体を問いとした提言は、1970 年代に欧米諸国で注目され、1973 年には日本に紹介され た、M.スキルベックによるSBCD理論(School Based Curriculum Development)に関連を見ることができる。そこには、 2017・2018 年改訂学習指導要領において提言されるカリキュラム・マネジメントについて、およそ半世紀後の現在においても有効な示唆がある。

学校が、そして教師がカリキュラム開発、あるいはその変容の主体となることがカリキュラム・マネジメントの骨子となる。
しかし、現場の教師は目の前のトピックに追われ、カリキュラムを改変しようという意欲やエナジーは持ち得ていないのではないだろうか。

だから、いつまでも同じことが繰り返され、気がつくと学校教育は時代から取り残されている。

ぼくはそれを、「メリーゴーランド」と称した。

50年近くも前に日本に紹介されたSBCD理論について、次回からもう少し考えていこう。
それは、カリキュラム・マネジメントのベーシックとなる。

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