「学校・教師のイノベーションへのいくつかの提言⑩〜これからの学校の目的は『授業』なのか〜」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.87
ここまで数回にわたって、「これからの学校の目的」を考える上で、教育の目的や「日本型学校教育」について論考してきた。
そろそろ「これからの学校の目的は何か」ということに結論を出していこう。
今回はまず、学校の目的のひとつである「授業」について考えてみよう。
7. 学校は「授業」の場であるという不易は消失していく
教師をしている元ゼミ生たちに久しぶりに会った。
2年目を終えようとしている今は、「教師という職業がとても楽しい」と言っている姿に安堵した。
北海道で教師をしているSは、学生時代に地域連携の取り組み「餅つき大会」を企画運営して成功させるなど、バイタリティーに溢れた学生だった。
そのSが、教師になって1年目の8月初旬に、突然電話をかけてきた。
「先生、明日からようやく夏休みですが、ぼくには夏休みが来そうにありません」
聞けば、新任で5年生を担任したSは、女子児童のグループ間の揉め事の中で収集がつかない状況に陥っていた。
両グループの保護者間にも揉め事が引火し、学校に「相談」に来るそうだ。
だからSは、夏休みでも学校に行かなければならない状況が続くのだと嘆いた。
だがそれから1年余り。
「教師が楽しい」と自信を持って言っている姿があった。
教師は成長する。
そんなSに聞いてみた。
「学校の目的はなんだと思う?学校はなんのためにあると思う?」
一瞬考えたSは、
「遊び場」「試し場」
と言った。
学校は何かを経験し、経験を積み重ねる場という意味だった。
とても興味深い考えだったが、もっと興味深かったのは「学習の場」などのように、授業に関連したり教科の学力に関連した言葉が出なかったことだ。
このSの発想は、「現代の教師」が持ちうる特徴的な発想かもしれない。
次の一文は「学校の目的」についてある著名な教育者が語った言葉だ。
「学校というところは、(略)教師を含めた何十人かの学級集団で教材を学習することによって、また学校全体の力によって、一人ひとりでは出すことのできない力を出していけるところに、学校の機能があり特徴がある」
「授業」(国土舎)p172
これは、現代の教育実践の中で語られた言葉ではない。
群馬県の「島小学校の実践」で名を馳せた斎藤喜博(1911-1981)が、数ある著作のひとつである「授業」の中で、「学校でしかできないもの」として論述した言葉だ。
「授業」が発刊されたのは1963年で、今から59年前のことだ。
たしかに学校は「授業」の場だった。
ぼくもよく、教師時代で新人の頃は先輩教師や管理職に、「授業で勝負しろ」と言われたものだ。
しかし今はどうなのか考えてみよう。
学級の一斉授業で、35人の児童生徒がいたとき、もうすでに授業内容を「知っている」「わかっている」子供はたくさんいる。
それを誤魔化しながら授業をする経験は、どんな教師にもあるだろう。
塾では「知識」を注入し、子供たちは「理解」できていない。
「学校」はそれを理由にするしかなかった。
だが、現在の日本が求める「学力」は、学習塾や予備校のプロの講師陣が、高い専門性と高度な技術で教える。
水泳に熟練したければスイミングスクールがある。
教師は水泳の授業をするが、水泳に熟練している訳ではない。
小学校に英語が導入されたが、一部を除いて教師は英語を話せないし聞けない。
だが、英会話教室や英語教室に行けば、プロの、あるいはネイティブの講師が程度の高い英語を教える。
そして格差は確かに生じる。
裕福な家庭の子供は専門的に学び、そうではない子供たちは学校だけがその場となる。
そういう意味では学校の授業は大切な場だが、すべての子供にとってそうではないということだ。
そのことを、学校現場でリアルに実感している新人教師が、学校を「遊び場」「試し場」と表現したのだろう。
斎藤喜博がいうところの「学校の目的」は、50年以上前のものだ。
だが、その言葉を現代の学校教育に「置き換えて」解釈することは可能であり、斎藤喜博の言葉が再び輝きをもつ。
50年前の斎藤の時代も、そして今も、授業における学級集団とは「教室」を意味してきた。
しかし、これからは「学級集団」ではなく「学習集団」でいい。
「学級」や「学年」というある種の縛りは、学校のイノベーションを阻害する。
一つの学習テーマについて、多様な学習集団が形成される「授業」は教室を出た広い場で実現される。
それが、これからの学校を創造するデジタルテクノロジーだ。
デジタルテクノロジーを用いた「学習集団」は、学級はおろか、日本中、そして世界と繋がり、多様な学習集団を形成する。
「授業」という言葉は変容していく(あるいは消失する)かもしれない。
そうなれば、求められる教師としての資質も変容していくだろう。
探究的で、アダプティブな学習をハイブリッド(人間と機械の融合という意味で)に、そしてグローバルに展開することができる能力が、教師に求められていくのではないだろうか。