「学校・教師のイノベーションへのいくつかの提言④ 〜学校教育の現実と夢〜」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.81

前回No.80では、「オンデマンドにの活用による個別最適な学びの可能性」について論考した。
もう少し、授業のイノベーションについて考えていきたいが、今回は、教師たちのやりとりから考えさせられた、学校教育の現実について話したい。

地に足をつけて取り組む教師たちの姿

昨日(12月26日)、とある研究会の仲間たちと久しぶりにオンラインで再開した。
集まったメンバーは若手の教師もいれば、中堅教師、教育委員会や教頭、大学教員もいた。

メンバーのひとりから、「この1年の教育的チャレンジについて語り合おう」というテーマが発信されていたので、それぞれが自分なりのチャレンジについて語り、そこからやりとりが自然発生的に生まれ、知らないうちに話題が深まった。
気がつけば、2時間があっという間に過ぎていた。

「授業力」「不登校」「学級経営」「教師の世代格差」「個別最適」など、いろいろな話題が出た。
ぼくはこの2時間の中で、いろいろなことに気付かされた。

ひとことで言うと、参加したメンバーの話を聞いていると、みんな「地に足がついた」悩みを抱え、取り組んでいるということだ。

こんな話題があった。

学級経営について悩む1人の教師の発言があった。
その教師は、「隣のクラス」の学級経営状況について危機感を持っているが、どこまで口を出せばいいのかわからない、という課題を抱えていた。

この悩みや迷いは理解できるものだった。

今はほとんど死語になっているが、「学級王国」という言葉があった。
自身の学級はうまく回すが、横の学級には目もくれない担任の様子を揶揄する言葉だ。

ぼくは学級王国しか作っていなかった気がする。
自分の学級で精一杯だったというよりも、自分の学級が好きでたまらなかった。
そして何よりもプロ根性が強かったので、隣の学級担任もプロであるべきだという考えがあった。

このブログのシリーズでも書いたが、ぼくが新任のとき、子供たちのことを思い浮かべながら作った授業シートを、隣の学級の定年前のベテラン教師に「勝手に共有された」ことがあった。
その教師の言い分は、「子供たちに差をつけてはいけない。学年は足並みを揃えなければならない」というものだった。

当時のぼくはかなり「尖って」いたから、(だったら自分も、目の前の子供たちのためにもっといい教材を作ればいいだろう)と思っていた。

今でも、そのような考えはあまり変わっていないかもしれない。
自分のクラスの子供を幸せにできなくてどうする、ということだ。

どの教師も、独自の「学級王国」を作ることができれば、子供たちは幸せなのではないか。
「あの先生の学級にいきたい」
そのように子供が選択できるぐらい、素晴らしい学級王国が学校にたくさん建っていればいいのではないか。

しかし、それはどうやら無理なようだ。

だが、どんないい教師でもうまくいかない、何か歯車が狂ってしまうことはある。
学級崩壊とはそのようなものだ。
見えない歯車が狂い始め、いつしか取り返しがつかない状態になる。

そんな状況になりかけている隣の学級を気遣う、若い教師の話がオンライン研究会で共有された。

そこで、今は教頭をしているKK(仮名)が面白いことを言った。
KKはこの研究会の主催者であり、人望の厚い教師で、ぼくも一緒に数年勤め、切磋琢磨した仲間だ。

KKは、隣の学級が危うい状態で、どこまで介入していいのか迷うという若手教師の話を聞いてこんな話をした。

「ぼくは教師をしているとき、3回ほど隣の学級が崩壊した。その崩壊した学級の担任は、いずれも自分よりも年上の教師で、当時の自分よりもかなりの高給を得ていた。だから見向きもしなかった。自分より高い給料をもらっていて、何をしてるんだと」

「でも、自分がベテランの域になったとき、隣の学級を潰すわけにはいかないと思った。そこでは学級や担任教員の評価があったが、自分が1番いい評価にならないようにした。うまく隣の若手教師を持ち上げ、評判を良くして自分は目立たないようにした」

この対策には唸らされた。
相当な力がないと、そして余裕がないとこんなことはできない。

しかしぼくは、KKに聞いた。

「それにはどのような意味があるんだろう。若手の教師を持ち上げて、ではそのとき、その学級の子供たちは、KKの学級の子供たちは幸せなんだろうか」

明快な回答は得られなかったが、そのあとぼくは考えた。
KKは「調整」し、子供たちに不利益が出ないように、そして、彼がよく言っている「みんな幸せな」教師生活を送れるようにしているんだろう。

ぼくは、KKの話を聞きながら、学校教育の現状の「地に足がついている」からこそできる考え、発想なのだと感銘を受けた。
学校教育の現実をリアルに見ている。
そしてそれは、突出もその逆もないようにする、平均的で問題のない学校運営が必要になっているという現実も垣間見える。

ぼくは学校教育現場を離れて8年が経ち、「研究者の視点」で学校教育を見るようになっている。
研究者の視点とは、心理学者の宮地尚子が「環状島」というメタファーを用いて災害や事件の当事者、非当事者のポジショナリティーを表現したとき、環状島の上をヘリコプターに乗って、当事者側や非当事者の上を行ったり来たりする立場が「研究者」だと表現した。

KKは学校教育でいうと教育界の「内海」にいて、いわゆる「当事者」だ。
ぼくは「内海(当事者がいるところ)」と「外海(非当事者がいるところ)」をウロウロしている。
だから無責任な理想論を語ることもある。

だが、「内海(当事者)」だけの方法や考えでは、「夢」がないとも思う。

若手を叱咤し、成長を望む気持ちももちろんあるだろう。
しかし、それで潰れてしまう教師もいる。
それを実感しているから、管理職になったKKは「調整」する。

KKが教頭をする学校では、休職する教師は皆無だという。
それは、KKの管理職としての手腕であり、そこに勤める教師は幸せだ。

ギリギリのところで、学校教育を支えている教師たちがいる。

だが、もっと「夢」のある学校教育を実現していきたいという思いは同じだろう。
教育に答えを見出すことは困難だが、方向性を見出すことはできる。
方向性は時代や社会と共に変容する。
そこに生きている教師が、方向を作ることができる。
そんな教師像が求められる。

「夢」を持って歩む教師の姿を、これから教師になる人たちに見せたい。
それが「憧れ」を生む


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