「校長のスペシャリティーとは」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.74

「憧れ」を取り戻すための教師のスペシャリティーとは何か。
それはどのようなものなのか。
続けて探究していこう。

スペシャリティーのある職業

例えば、「憧れ」とスペシャリティーがリンクしている職業と言われると、何が思い浮かぶだろう。

サッカー選手やプロ野球選手もそうかもしれない。
専門性が極めて高く、「才能」がなければだれにでもなれるものではない。
人それぞれだが、ぼくは「医師」が思い浮かぶ。

医師には紛れもないスペシャリティーがある。

高度な知識と技能を背景にした専門性は、今日明日で身につくものではなく、だれにでもなれる職業ではない。
したがって、その入り口も出口もハードルは高く設定され、「大学の医学部」というだけで羨望とリスペクトの対象となる。
だから医師の給与は、教師に比べてはるかに高い。
医師という職業には、スペシャリティーがあるということだ。

では、教師はどうだろう。

ここで少し、日本を離れて見てみよう。

「海外では」とすぐに言うことを「では(出羽)のかみ(上)」と揶揄するそうだが、それではいつまでも見識が広がらない。
このブログでも少し触れたが、いじめの研究について、国内で閉ざされた「鎖国的」な研究に終始していたため、海外では日本のようないじめがない、と、誤った見識が広がっていた。
教育の世界についても、「鎖国的」に物事を見ていると、いつまでも「島の中」だけの教育論議が循環するだけだ。
その循環はどこかで濁ってくる。

アメリカの校長のスペシャリティー

日本の教師は世界でも有数の「優秀」さを持つと言うことは、よく聞く話だ。
それは、授業も、いじめ対応も、保護者対応もして、そしてクラブ活動の指導もする。
そしていずれは校長になっていく。
校長は学校教育のスペシャリティーの最たるものであるはずだが、日本の場合それは専門性で校長になるのではなく、年齢や経験が作る「立場」だと言えるだろう。

そこで、アメリカで見た校長のスペシャリティーを考察してみよう。

数年前だが、アメリカコロラド州のコロンバイン高校を訪問した。
ぼくの専門は学校安全・安全教育であり、コロンバイン高校では1999年に当校の生徒2人によって銃乱射事件が発生した。
2002年に公開されたマイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』(原題: Bowling for Columbine)が有名だが、ほかにも多くの映画、ドキュメンタリー、書籍が刊行されている。
この事件で当校生徒や教師13人が銃殺され、24人が重軽傷を負った。

ぼくはある年、事件のその後の学校の在り方、教育について調査に行った。

紹介している書籍、「たましいの共鳴 コロンバイン高校、附属池田小学校の遺族が紡ぐいのちの絆」は、ぼくが勤めた附属池田小学校の児童殺傷事件の被害者遺族が、コロンバイン高校を訪問し、その被害者遺族と関わり合った記録だ。

ぼくが訪問したその時、ずっと対応してくれたのはコロンバイン高校の校長、フランク・デアンジェリスだった。
その風貌は刑事コロンボといったところ。
穏やかで温かな雰囲気に満ち溢れていたが、事件の話になると、時に厳しい表情になった。
フランク・デアンジェリスは、コロラドのprincipal of the yearを受賞したり、National Principal of the yearのファイナリストになるなど、校長としてスペシャルな存在だった。

デアンジェリス校長は、事件現場となったカフェテリアへゆっくりと歩きながら案内してくれた。
廊下には、乱射事件で犠牲となった生徒たちの遺影が飾られていて、胸を打った。

同時に、ぼくはある光景に感銘を受けていた。

廊下を歩きながら、何人もの生徒とすれ違った。
そして、デアンジェリス校長とすれ違う男子生徒も女子生徒も、みな同じように柔らかな笑みを浮かべながら、デアンジェリス校長に

“Hello,Mr,Frank!

と言った。

デアンジェリス校長は、その一人ひとりに挨拶した。

Hello,Jenny!

と、名前をつけて。

そして、一言二言語りかけ、生徒たちは少しはにかみながら答えて去っていった。

とても「かっこよかった」。

日本でも、実習指導の訪問などで学校を訪れると、似たような光景は目にする。
しかし、何かが違った。

ぼくはデアンジェリス校長に、

「あなたは生徒の名前を覚えているんですか?」

と聞いた。

デアンジェリス校長は、かっこよく方をすくめながら、

「ええ、もちろん。私はこの高校の生徒は全員覚えています。彼らのパーソナリティーもね」

そんなデアンジェリス校長を見て気がついた。

生徒たちの表情に浮かんでいたものは、校長への”リスペクト”だった。

日本の校長との違い

アメリカの校長の場合、日本のように教諭が年齢を経て管理職になっていくのではない。
校長になる条件は、3年〜5年程度の教師経験と、学校経営学や行政学の最低でもマスター、多くの場合はドクターを修めることだ。

したがって、校長は「教諭あがり」がなるのではなく、校長という専門職であるということだ。

だから、日本の校長とは構造的に違う。

同じ視察の過程で、ぼくはデンバーにある別の高校を訪問したとき、30代の若い校長に出会った。
ちょうどそのときはハロウィンの日で、若い校長は生徒たちと一緒に仮装を楽しんでいた。

その校長は学校経営学のドクターだった。

今、日本でも若い校長が出てきているが、これは歪な新規採用の過程が生み出した、構造上、生み出されてきているものだ。

このままでは、日本の校長にスペシャリティーはいつまでたっても生まれない。

校長は、教諭が知らないことをたくさん知っているべきだし(経験からのものではなく、高度な専門性の習得)、教師を長年していれば、誰にでもなれる職であってはならない(クリアしなければならない、いくつかの高いハードルの設定)。
そしてその分、より高い報酬が支払われ、誰もが校長を目指す構図が望まれる。
高い報酬は、その職業のスペシャリティーに支払われるべきで、「経験」という年功に応じていれば、いつまでも教職にリスペクトと「夢」は持たれない。

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