「“憧れ”を取り戻すための、教師のスペシャリティー」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.73

本シリーズ「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」では、その要因を探究しながら、これまでに72のエピソードを語ってきた。

このシリーズも、いよいよ終わりが近づいてきた。
教師が「憧れ」を取り戻すための探究を始めよう。

教師のスペシャリティーとは

これまでの72のエピソードから総括して、教師という職業が「憧れ」を喪失している要因と、それを取り戻すための要因は、教師のスペシャリティーであると考えてみたい。
それは、高度な専門性がなければだれにでも持ち得るものではないというものだ。

2019年末からのコロナ禍において、教師のスペシャリティーの脆弱性が露呈した。
そして、教師はティーチャー(teacher)なのか、ケア・ワーカー(care worker)なのか、という新たなる「問い」を生んだ。

teacherという側面

学校のカリキュラムは、コロナ禍において大きく変容した。
学校行事は削減、縮小され、授業には大きな遅れが生じた。

これらのコロナ禍における学校カリキュラムの変容は、子供たちにどのような影響をもたらしたのか。
今後、いくつかの研究によってアセスメントされていくだろう。

だが、今のところどうだろう。
カリキュラムの変容は、学校教育にそれほどの影響を与えていないように見える。
遅れた授業は、学校再開後に一気に進めたり、夏休みを少し短くして対応した(学力や成果、教師の多忙は別のトピックとして)。
このとき、ぼくとしては不思議だったし感心させられたのは、学校や教師が「授業時数の確保」にとてもこだわったことだ。
学習指導要領が示すものはミニマム・エッセンシャルズという定説があるにもかかわらず、学校・教師は「授業時数を確保」するために行事を削減、中止したり休日を返上した。

ミニマム・エッセンシャルズが示す授業時数は、弾力的に加減すればいい。
だから、コロナ禍によるどうしようもない授業時数の減少は、そこから無理をせず、工夫して内容を挽回する方向でよかったはずだ。

この現象が、教育のイノベーションが困難であることを象徴した。
学校教育というものは、これまでの慣例を変えることに、とても大きな抵抗(感覚的な)があるということだ。

care workerという側面

コロナ禍において、これらteacherという側面とともに、もうひとつの顔を教師は持たなくてはならなかった。

コロナ禍において、とくに緊急事態宣言等が発出される中で果たしてきた学校の役割の側面に、家にいてもだれもいない子供(親が働きに出ているなど)や、給食を食べなければ食生活に不安がある子供達の「ケア」だった。
その時期の学校は、教育機関というよりも預かり施設という役割の側面が大きなウェイトを占めていただろう。

その結果として、2020年はいじめが減少し、不登校は増加した。

学校がなかったからいじめが減少し、学校が始まっても戻らない子供たちがいるということが推察される。
では、

「学校とは何なのか」

これが、学校、そして教師のスペシャリティーの脆弱性が露呈したことの意味だ。

次回、学校、教師のスペシャリティーについて、海外の教師のスペシャリティーも含めてもう少し探究していこう。

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